ぽろっぽの日記

人生、読書、健康、つれづれ。ー日々感じたことを言葉と写真で表現したいー

坂口安吾「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」

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法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬー

坂口安吾の日本文化私観でこんな文章があった。

図書館でなんとなく借りた本だったけど、かなり過激な文章で、ついつい読んでしまう。僕たちがなんとなく世の中こんなもんだよね、それでいいんだよね、と思っていることをことごとく粉砕しにかかっている。

彼は美について、芸術について語っている過程でこの記事のタイトルの言葉を放っていた。

美とは何か、芸術とは何か、伝統とは何か

それらの言葉を説明するのは簡単なようで難しい。

何となく高貴なもの、神聖なもの、大切にしなければいけないもの

そういう風に感じる人が多いのではないだろうか(僕はそう感じている一人だ)。

しかし、彼は全く逆説的なことを言って、こう喝破している。

ー美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当のものではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、せんずるところ、有っても無くても構わない代物である。ー

 

美術、史跡、文学、音楽、こうしたものには美、芸術、伝統とは切っても切り離されないものだと思うが、果たして、僕らはどれだけ自分の感覚に正直でいられるのだろうか。どこか先入観があって、これは世間や歴史が評価してるから良いものと決めてかかっていないだろうか。何か自分で創作するときも、こういう評価を鵜呑みにして自分の感覚を信じず、模倣していないだろうか。形式主義になっていないだろうか。

 

では本当の美とはなんなんだろうか。安吾はこう答えている。

ーただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだー


安吾の言葉から類推すると、おそらく伝統も同じことが言えるのではないだろうか。伝統は伝統だから存在するのではない。僕らの魂に訴えかける物があり、必要だと感じるからこそ、存在する。それは形式主義にとらわれることなく、形を変えながらも、何か根本的なもので魂に訴えかけてくる共通なもの。そういうものこそが伝統になるのではないだろうか。


本来の伝統は生命があり、僕らの魂に強烈に訴えかけるものがある。しかし、伝統という形式主義に囚われてしまうと、それらが失われてしまう。僕の記憶が間違ってなければ、芸術家の岡本太郎安吾と似たようなことを言っていた。現に彼も法隆寺は焼けて結構と言っていた。


僕は法隆寺平等院も焼けて欲しくはないけど、真に自分の感動を求める時、安吾の美や、またそこから類推される伝統に対する姿勢は傾聴に値すると思って、読書記録も兼ねてこの記事を書いた。

 

岡本太郎

芸術は爆発だ

と言っていた。。初めてこの言葉を聞いた時は面白いなぁと思ったけど、そこには深い意味があったに違いない。