日記を書き続けることによって、今更ながら「継続は力なり」を実感した。

手書きの日記帳に書いたり書かなかったりと、細々と続けていたが、「継続は力なり」とは良く言ったもので、今更ながらその含蓄ある言葉に頷かざるを得ない。

 

継続とは一体何を持って継続とするのか、それは中々難しい問題になってくるが、まぁ日記で言うなら毎日でなくとも、とにかく何か月も日を空けてもいいから、たまに書くことをしていれば、継続と言ってもここの話では良いことにする。

 

というのも、僕自身が実際に毎日のように書く日もあれば、パタリと途絶えて、3か月ぶりに書くこともあるからだ。

 

ただ、こうして細々と書くことによって、日記に対するものの見方や、書き方など、書き始めたころに比べるとだいぶ変わっていることに気づく。早い話、日記を書くのが楽しくなってきたという事だ。

 

なぜ楽しくなったのか。それは今まで自分にあった日記に対する先入観、固定観念が取り払われていったことが多分に寄与している。最初、日記とはこうあるべきだとか、こんなに汚い、支離滅裂な文章じゃ駄目だとか、とかく完璧主義、潔癖なるものを日記に求めていた。

 

しかし、細々と書き続けていくうちに、そんな姿勢で日記を書いてても全然楽しくなく、単なる義務感になっていることに気づいた。しかも、前回の記事でも書いたが、夏目漱石という大文豪ですら、日によっては一文字しか書いていない日もあり、日記はあくまで日記であり、メモ程度でいいのだということを知り、自分はそれで日記に対してだいぶ肩の力が抜け、それ以降楽しく書けるようになっている。(おかげで最近は毎日書いている)自分なりの書き方で良いのだということがわかってきたのだ。

 

しかし、この自分なりの書き方で良いという発見は、継続してきたからこそ発見できたことである。細々と書き続けてきたからこそ、自分が日記に対して何を求めていたのかがわかり、夏目漱石の日記という自分にとっては大変参考になるものに出会うことが出来た。

 

毎日継続できなくてもいい。自分なりのペースでもいいから、細々と続けることによって、それが新たな発見を呼び寄せ、自分の力となる。「継続は力なり」である。すごく大袈裟だが、僕は日記を書くことによってそいつを身体で知ることが出来た。

 

f:id:great1-1geist:20191112144355j:plain

富士五湖からの富士山―

自転車旅行で撮ったもの。自転車も細々と続けている。続けているからこそ、こういう景色に出会うことが出来るのだと思う。

 

 

 

 

まさか一文字ですか。漱石さん。最高ですよ。

f:id:great1-1geist:20200319193248j:plain

手書きで日記帳に書いているが、どうも億劫になったりして、書いたり書かなかったりする。別に毎日書くことを自分に義務付けているわけではないが、何よりも困ったことは、日記を書くことそのものを楽しめない時があるということだ。

 

どうも僕は筆下手で、書くという行為そのものが億劫になりがちだ。自分が筆下手ということをよくよく考えてみると、そもそも日記の書き方がよくわかっていないということに気づいた。

 

そのことを妻に話したら、「他の人の日記を参考にすればいいんじゃないの」と言われ、なるほどと妙に納得できたので、夏目漱石の日記を買ってみた。

 

夏目漱石のことだから、さぞびっしりと、理路整然と書かれていると思いきや、あまりにも簡略に書かれていたので、思わず肩の力がぐにゃりと拍子抜けしてしまった。

日記の内容はざっとこんな感じだ。

 

九月九日(日)

十時神戸着、上陸。諏訪山中常盤にて午餐を喫し、温泉に浴す。夜、下痢す。晩餐を喫せず。

 

事実を簡潔に書いてて、所感たるものはない。下痢という事実を書いてるのがおもしろい。さらに本のページをパラパラめくると 

 

九月二一日((金))

晴。

 

まさか一文字ですか。漱石さん。最高ですよ。

 

こうして明治の文豪、国民作家と言われた漱石が、一文字の日記を書いてたことを知ると、今まで自分が日記の形式にこだわってて、逆に筆が進まなかったことを悟った。

もっと自由に簡単に書けばいいんだ。そういえば自分はブログだとタイピングが進む。きっとブログは自分にとって形式が存在してないからだ。だから自由になれる。日記も同じようにすればいい。今日自分が日記を書くならこんな感じにしてみる。

 

3月19日(木)

仕事中、動悸がした。帰宅後、漱石の日記を読む。彼の日記では一文字で記した日もあるので、我、日記に対して大いに自由な気持ちになる。

やったり、やらなかったりを繰り返して習慣化したもの

いつの間にかブログの更新を200日近くサボっていた。気付いたら年が変わり、令和2年になった。

 

今日、なぜ200日ぶりにブログを更新しようかと思ったのかというと、実は昨日から伊香保温泉に来ていて、割に気分が良くなってきたことと、もう一つはブログのアクセス数を確認してみると、200日も更新していないのに、1日の平均アクセス数が100近くいってることに驚き、少しはこのブログも役に立っているのだと思うと、変な義侠心が働き、たまには更新しなければと思ったからだ。

 

このブログを含み、僕は継続することがそれほど得意ではない。日記は相変わらず書いたり、書かなかったり。ラジオ体操もやる日があったり、やらなかったり。趣味の自転車さえ、ここ2か月以上は乗っていない。

 

でもそれでいいんだと最近は思うようになった。そもそも継続とは毎日欠かさずやることが継続でもないし、週に何回とか定期的にやることを指しているわけではない。いつの間にか継続は毎日やるもの、定期的にやるものと自分で決めていた。あるいは世間の暗黙のルールに知らず知らずのうちに影響されていたのかもしれない。でも、やりたいと思ったときにやることも継続だと感じるようになった。

 

そんな風に継続というものを捉えなおすと、ブログ、日記、ラジオ体操、自転車に対して、継続しなければいけないという変なプレッシャーを受けなくていいし、もっと純粋に自分のやっていることに対して楽しさと寛容さを持つことができるようにった。

 

そんなスタンスで、今年は何事も『継続』していきたいと思う。

f:id:great1-1geist:20200229091554j:plain

新しい日記帳

サイズが丁度良く、愛用しています。

猫のデザインも気に入ってます。

 

f:id:great1-1geist:20200229091723j:plain

伊香保温泉の旅館からの眺め

冬は空気が澄んでいて、山々がよく見える。

伊香保は程よくお店があり、人も多すぎず、少なすぎず、落ち着きます。

僕が伊香保温泉に魅了された理由

 夏の強い日差しを浴びながら石段を上っていくと、途中から階段の両側に、まるで児童が背の順をさせられているかのように店が立ち並んでいる。後ろを振り向くと、上毛三山の一つ、赤城山雄大に聳えている。赤城山を見ると虚心になり、自分の心を固くさせてしまっているものから解放させてくれる。そして、また階段を上っていく。

 

 踊り場に差し掛かると、上りの階段、下りの階段と二つに分けるように、真ん中には温泉が上から流れているのを、小窓を通して見ることが出来る。小窓を覗くと、水路が温泉の成分で茶色に変色している。顔を上げて、周囲を見渡すと、お土産屋、雑貨屋、喫茶店などがある。人はまばらであり、決して賑わっているわけではない。しかし、閑散という言葉もあてはまらない。そこには観光しなければいけいないという観光地ならではの義務感から解放されている。

 

 階段の途中には左右に細い路地がつながっていて、奥には店らしきものがある。伊香保温泉ならではの風景であり、まるで昭和の時代にいるようだ。そんな路地の中の一つを入っていき、今日宿泊するホテルに向かう。

 

 夕方前にチェックインして、さっそく湯に浸かり行く。露天風呂はなく、5~6人ぐらい入れる程度の内湯のみである。簡素な浴場であるが、源泉掛け流しの本物の温泉だ。湖の穏やかな波が浜に打ち寄せるように、湯が湯船からサーっと溢れている。ゆっくりと湯船に浸かってみる。湯は茶色に染まっていて、湯加減はちょうど良い。自分以外に宿泊客はいない。湯船の縁に腕をのせ、うつ伏せになり身体をのばす。ひたすら身体を湯に預ける。

 

 湯から上がり、部屋に戻って冷たい水を一杯を飲む。畳に仰向けになって寝ころび、うたた寝をする。

 

 1、2時間寝たのだろうか。起きて窓の景色を眺めると、夕暮れで桃色に染まった雲に抱かれた赤城山が見える。写真を撮るのももったいない。ただただ、この時間と景色を自分の心に留めておきたい。

 

 観光地に来たが、観光しに来たわけではない。心と身体を休ませたかったのだ。そんな場所を探し求めていた。そしてここにはそんな場所がある。僕が伊香保温泉に魅了された理由はここにある。

 

習慣化する効用について(習慣化できたもの、習慣化できなかったもの)

 前回の記事では習慣化しようとしているものについて書いた。

great1-1geist.hatenablog.com

今回の記事では、その後習慣化できているもの、できなかったものについて書く。

 

◆ラジオ体操

今もほぼ毎朝継続できている。

ラジオ体操の効果は絶大で、たった3分間という時間にもかかわらず、気分を一気に活動モードに移行させてくれる。

一年前に右肩を打撲したが、ラジオ体操を始めてからかなり回復した。

3分というカップラーメンを待つ時間で、これだけの効果があるので継続する気になる。

 

◆起床時間の規則化

出来たり、出来なかったり。

どうしても気分が憂鬱の時は朝寝坊したくなる。

だらだらと寝てしまう時もあるが、寝すぎないように意識はしている。

1日を布団で過ごしたという日はまだないので、それなりに効果はでているのかもしれない。

 

◆日記の習慣

これはまったくできてない。

いつのまにか書かなくなってしまった。

ダラダラと書くこともできないし、かといって推敲する気にもならない。

日記は、僕にとって中途半端なツールなのかもしれない。

 

 習慣化できたもの

中には残念ながらできなかったものもあるが

ぼちぼちやっていこう

 

 

 

習慣化する効用について

今年の目標であるラジオ体操と日記は今もなんとか続けられている。

ラジオ体操は朝起きたときに必ずやるようにルーチン化しているので、そこまで苦ではない。

 

日記の方は結構サボりがちだ。2,3日まとめて書いてしまうことが多々ある。

ラジオ体操のように1日のどのタイミングでやるかを決めてないのが大きい。

ルーチン化することが物事を継続するうえでいかに大切かをひしひしと感じている。

 

ルーチン化といえばもうひとつやっていることがある。

それは起床時間だ。

仕事がら夜勤があるので、毎日の起床時間を同じにすることはできないが、それでも可能な限り一定に保つように心掛けている。

例えば、仕事のある日は5時20分起床にして、休日は7時半までには起きるようにしている。夜勤入りの日も同様に7時半までには起きるようにしている。そして、出勤前に軽く仮眠する。

要は朝寝坊は7時半までと決めておいて、出来る限り、平日の起床時間と差がないように心掛けている。

不思議なことにそれを心掛けてから精神状態が落ち着いてきたような気がする。

睡眠の質も良くなった感じがある。

やはり人間は習慣の動物なのだろうか。

 

こんな感じだから日記も習慣化したいのだが、いかんせんまだルーチン化できていない。さて1日のうちいつ書こうか。

f:id:great1-1geist:20190327173857j:plain

ダイソーで買った日記帳

365日分の記述欄がありあり、中々使いやすいので愛用している。

東京理科大学久喜キャンパス跡地

加須のホームセンターから自宅に帰る途中の事だった。

車のナビに東京理科大(以下理科大)と出てきたので、寄ってみることにした。

理科大は東京とつくわりに北海道、久喜、野田、諏訪、山口など結構色んなところにキャンパスがある。

今日寄り道しようと思った場所は自宅から近い久喜キャンパスだ。

 

近くまで行ってみると

f:id:great1-1geist:20190323101721j:plain

大学がない・・・

物流施設ものらしきものが正面にある。

 

f:id:great1-1geist:20190323102115j:plain

調べてみると、理科大は久喜キャンパスから撤退したとのこと。

久喜市は猛反対したが、止めることはできなかったらしい。

僕は理科大の野田キャンパスのOBであるが、キャンパスが異なる久喜キャンパスでさえ、母校の一部がなくなるというのは寂しいものだと感じた。

それこそ、過去に自分が学んだ校舎がなくなるというのはもっと寂しいのだろう。

 

大学跡地から物流施設への転換。

まさに今後の久喜市の象徴的な出来事であるような気がしてならない。

僕個人としては寂しい想いがあるが、裏を返せば物流関係の業界からは魅力ある地域ということなのだろう。

今後の久喜の発展を祈る。

 

終わり。