解らないものをそのまま飲み込む方丈記
僕は最近『方丈記』に夢中になっている。
世の中の不条理さ、無常さ、儚さを余すところなく書いていて、しかもそれが単なる嘆きではなく、まるで一つの歌を聴いているような文章であり、とても心地良い気分にさせてくれる。
無駄のない文章、美しい文章とはこういうものを言うのかもしれない。
実際、方丈記を書いた鴨長明は、和歌において第一線で活躍した実力の持ち主であったようだ。
方丈記を読むとまるで静かな山の中にある、簡素な家にいる気分になる。
小鳥のさえずりと、そよ風に吹かれて、木々の葉がさらさらと心地よく揺れている。
家にあるものは必要最低限のもので余計なものはない。
そこでは世の中の煩わしさに惑わされることなく、静かに自分と自然が同居している。
そんな感覚にさせてくれる本だ。
この本は世間に埋没し、疲れ果てた人たちをそっと静かな場所に導いてくれる。
その場所は決して煌びやかな世界でもないし、永遠の命が約束され、希望と幸福に満ち溢れたエデンの園でもない。
はたまた極楽浄土でもない。
あくまで現世の世界であり、俗世界である。
しかしこの本を読むと、この俗世界の生き方を歌によって、そっと教えてくれる。
そんな本である。
人はなぜ死ぬのか、人はどこから来て、どこへ向かうのか。
この本にはその問いに答えようとはしない。
あくまで解らないことは解らないと、ありのままを受け入れ、飲み込もうとする。
僕はそんなスタンスで書かれた『方丈記』がとても好きになった。
解らないものは解らない。
無理に答えを拵えようとしない。
答えがないことは不安に感じることかもしれないけど、無理に答えを作る方が余計に不安にさせられると思う。
変な例えだけど、無理に答えを作るということはエナジードリンクを飲んでることと同じことだと思う。
無理に答えを作りだすことによって、一時的に不安を取り除いて、気分を無理に高める。
その時は気分がいいけど、ある時急に不安に襲われることがある。
現代は科学が発展して、解らないということが昔よりはるかに少なくなったと思う。
解ること、解っていることが当たり前になってしまって、解らないことに対してみんな免疫がなくなっているんじゃないかな。
だからみんな解らないことに対しては過剰に敏感になるし、受け入れられることが中々できない。
自然災害が起こった時はその様子がよく現れている。
でも、そもそも日本人は解らないことを受け入れていた民族と思う。
ありのままを受け入れていたんじゃないかな。
今の日本はその葛藤にもがいているようにも感じられる。
そもそも、物事を解ろうとする行為自体が、実は西洋からの輸入の思想だ。
聖書の話を聞くと、その思想が端的に現れている。人が生まれる前の話、人が死んだ後の話、人間の性質など、色んなことが事細かく書かれている。
聖書は精巧な論理で構成されている書物だと感じた。
でも日本にはそういう本もなかったし、思想もなかった。そういうことが書かれた本なり、思想なりはみんな外から来たものだ。
もともとの日本人は物事を論理的に正確に把握するというよりは、自然に寄り添って、感覚的に物事を把握しようとしていた。
方丈記はそういった日本人の根底にある思想を端的に表してるようにも感じられる。
あくまでありのままに。
無理することなく、自然のまま、等身大で生きようとする。
僕はそんな生き方にすごく共感するし、自分もそんな生き方をしたい。
最後に方丈記の原文をここに記したいと思う。
(原文)
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。
―中略―
朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。
(現代語訳)
川はいつもおなじ姿で流れている。しかし、その流れをかたちづくっているのはおなじものではない。新しい水がたえず上流から流れてきては、そのまま下流にむかって流れさっていく。これがありのままの姿である。
流れのよどみには、水のあわが浮かんでいる。あわは、いまここで消えていくかと思うと、またあちらに生まれる。あわの浮くよどみというおなじ情景ではあっても、じつは消えては生まれる、はかないくりかえしをわたしたちは見ているのだ。いつでもこわれないあわが、浮いているわけではない。
この流れの水や、あわのあり方とおなじことが、人間のじっさいの姿や、住む家についてもいえる。
―中略―
朝なくなる人がいる。夕がた生まれてくる人がいる。人間の命は、はかない運命の下にある。まったく、こちらで消えるとあちらで生まれてくる、水のあわのさまそっくりではないか。
生まれては死んでいく人間は、どこからきたのか。そしてどこへむかって去るのか。それは、わたしにはわからないことだ。そういう人間にとって家などは、みじかい生のあいだを過ごす、ほんのしばらくの居場所にすぎない。
そのことを人々はわきまえているだろうか。たとえば、いざ家を建てるとなると、人はひどく神経をすりへらし、できあがるとあかずながめて楽しむ。それはだれのため、なんのためか。これもまた、わたしにはわからないことである。
家も、住む人も、おなじはかない存在ではないか。どっちが先にこの世から姿を消すか、という時期の早い遅いをあらそっている、とすらいえそうな両者である。これはまさに朝顔とその花びらに宿る朝露の関係である。
花と朝露。あるときは露が先に落ち、花がのこる。が、その花も日をあびると、じきしおれる。あるときは花が先にしぼみ、露がのこる。そのときも、夕がたまで露がもつというわけにはいかないのである。