ぽろっぽの日記

-心に舞う蛍を追いかけて-

「これでいいんだ」とありのままの自分を認めてくれる場所

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何か物事に行き詰ったとき、ふと外の景色を見ると心が落ち着くことはないだろうか

 

僕は行き詰った時や、心の中でモヤモヤしたときは意識的に散歩して外の景色を見るようにしている

 

そうすると不思議と心が落ち着く

 

自然の景色に目を奪われるている言えばいいのだろうか

 

いやむしろ自然と自分が一体になっていると表現した方が適当かもしれない

 

内側にある自分という存在と外側にある自然の景色の区別がなくなっている

 

「僕」という意識がなくなっているからこそ心が落ち着くのだろう

 

行き詰る、モヤモヤするということは

 

内側にある自分に意識が向いている

 

外側にある物に対して意識が向いている

 

ということだと思う

 

 この「意識」によって苦しめらるのだろうか

 

さらに掘り下げるなら自分の「意識」を構成している今までの自分が作り上げた「価値観」「経験」によって苦しめられているのかもしれない

 

しかし、外の景色を見ることによって一時的にではあるが、この「意識」を取っ払うことができる

 

そうすることによって自然と自分が一体となって、心身がリラックス出来る

 

そして不思議とありのままの自分を認められる感覚がでてくる

 

自然が作り出す美しい景色を見ていると、自分もその自然の一員なんだという感覚が湧き起こってくる

 

自然の一員であること、それだけで自分の存在を肯定できる気がする

 

今の時代は自分の存在を肯定できる場所が少ないのかもしれない

 

家族、友人、職場

 

自分の存在を肯定できる場所を挙げてみようとしたが、案外限られているなぁとおもった。

 

しかも家族、友人、職場だって、条件付きの自分である人は多いと思う

 

家族、友人、職場で100%の自分を出してる人はほとんどいないだろう

 

ある程度その場所で認められるために演じている自分がいるはずだ

 

この認められるために演じるというのは負担になる

 

友人や職場に嫌われないために愛想よくする

あるいは周囲から注目されるように必要以上に自分を大きくみせたり、魅力的に見えるようにする

 

こういうことを人はついやってしまう

 

もっとありのままの自分、醜い自分があるのにそれを封じ込めてしまう

 

これは本人にとっては辛いことだ

 

昔は宗教、信仰があったため、ある意味本来の自分を神の前では懺悔、告白することができた

 

しかし今はそれが出来ない

 

ありのままの自分を認めてくれる場所、告白、懺悔する場所がなくなってしまった

 

だから僕は無意識に自然と向き合い、自然の景色に救いを求めているのかもしれない

 

自然の景色はみると、ただただありのままの自分がそこにいる

 

自分を偽ることなく、ただそこに存在していればいい

 

僕は思う

 

昔の日本人は賢かったんじゃないか

 

昔の日本人は自然に対して謙虚であり、祈りや祭りを通じて、自分の居場所を見つけていたんではないか

 

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