ぽろっぽの日記

-心に舞う蛍を追いかけて-

仕事帰りの雨上がりの夕日

 雨上がりの夕日は綺麗だ。

 仕事が終わっていつもの道を自転車で帰る。

 いつもの道だけど、今日はいつもと違った。

 

 空気が澄んでいる。

 雨で汚れを落としたのだろう。

 いつもは見えない上州の山々まで見える。

 

 秩父連山の方はまだかすんでいる。

 そこでは雨が降っているのかもしれない。

 それでも雲間から陽光があふれてきている。

 雲は灰色から白色、赤色、紫色と交じり合っている。

 

 木々の間を走ると、木漏れ日がある。

 まるで森の中を歩いているようだ。

 

 いつもの道、いつもなら仕事のことを考えながら自転車をこいでいるけど、今日は違う。

 気持ちいつもよりゆっくりと漕ぐ。

 満ち足りた時間だと思いながら、僕は家に向かっていた。

解らないものをそのまま飲み込む方丈記

僕は最近『方丈記』に夢中になっている。
 世の中の不条理さ、無常さ、儚さを余すところなく書いていて、しかもそれが単なる嘆きではなく、まるで一つの歌を聴いているような文章であり、とても心地良い気分にさせてくれる。
 無駄のない文章、美しい文章とはこういうものを言うのかもしれない。
 実際、方丈記を書いた鴨長明は、和歌において第一線で活躍した実力の持ち主であったようだ。

 方丈記を読むとまるで静かな山の中にある、簡素な家にいる気分になる。
 小鳥のさえずりと、そよ風に吹かれて、木々の葉がさらさらと心地よく揺れている。
 家にあるものは必要最低限のもので余計なものはない。
 そこでは世の中の煩わしさに惑わされることなく、静かに自分と自然が同居している。
 そんな感覚にさせてくれる本だ。

 この本は世間に埋没し、疲れ果てた人たちをそっと静かな場所に導いてくれる。
 その場所は決して煌びやかな世界でもないし、永遠の命が約束され、希望と幸福に満ち溢れたエデンの園でもない。
 はたまた極楽浄土でもない。
 あくまで現世の世界であり、俗世界である。
 しかしこの本を読むと、この俗世界の生き方を歌によって、そっと教えてくれる。
 そんな本である。
 
 人はなぜ死ぬのか、人はどこから来て、どこへ向かうのか。
 この本にはその問いに答えようとはしない。
 あくまで解らないことは解らないと、ありのままを受け入れ、飲み込もうとする。
 僕はそんなスタンスで書かれた『方丈記』がとても好きになった。
 
 解らないものは解らない。
 無理に答えを拵えようとしない。
 答えがないことは不安に感じることかもしれないけど、無理に答えを作る方が余計に不安にさせられると思う。
 変な例えだけど、無理に答えを作るということはエナジードリンクを飲んでることと同じことだと思う。
 無理に答えを作りだすことによって、一時的に不安を取り除いて、気分を無理に高める。
 その時は気分がいいけど、ある時急に不安に襲われることがある。
 
 現代は科学が発展して、解らないということが昔よりはるかに少なくなったと思う。
 解ること、解っていることが当たり前になってしまって、解らないことに対してみんな免疫がなくなっているんじゃないかな。
 だからみんな解らないことに対しては過剰に敏感になるし、受け入れられることが中々できない。
 自然災害が起こった時はその様子がよく現れている。
 
 でも、そもそも日本人は解らないことを受け入れていた民族と思う。 
 ありのままを受け入れていたんじゃないかな。
 今の日本はその葛藤にもがいているようにも感じられる。
 
 そもそも、物事を解ろうとする行為自体が、実は西洋からの輸入の思想だ。
 聖書の話を聞くと、その思想が端的に現れている。人が生まれる前の話、人が死んだ後の話、人間の性質など、色んなことが事細かく書かれている。
 聖書は精巧な論理で構成されている書物だと感じた。
 
 でも日本にはそういう本もなかったし、思想もなかった。そういうことが書かれた本なり、思想なりはみんな外から来たものだ。
 もともとの日本人は物事を論理的に正確に把握するというよりは、自然に寄り添って、感覚的に物事を把握しようとしていた。 
 方丈記はそういった日本人の根底にある思想を端的に表してるようにも感じられる。
 
 あくまでありのままに。
 無理することなく、自然のまま、等身大で生きようとする。
 僕はそんな生き方にすごく共感するし、自分もそんな生き方をしたい。
 最後に方丈記の原文をここに記したいと思う。

 

(原文)
 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。

―中略―

 朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。


(現代語訳)
 川はいつもおなじ姿で流れている。しかし、その流れをかたちづくっているのはおなじものではない。新しい水がたえず上流から流れてきては、そのまま下流にむかって流れさっていく。これがありのままの姿である。
 流れのよどみには、水のあわが浮かんでいる。あわは、いまここで消えていくかと思うと、またあちらに生まれる。あわの浮くよどみというおなじ情景ではあっても、じつは消えては生まれる、はかないくりかえしをわたしたちは見ているのだ。いつでもこわれないあわが、浮いているわけではない。
 この流れの水や、あわのあり方とおなじことが、人間のじっさいの姿や、住む家についてもいえる。

―中略―

 朝なくなる人がいる。夕がた生まれてくる人がいる。人間の命は、はかない運命の下にある。まったく、こちらで消えるとあちらで生まれてくる、水のあわのさまそっくりではないか。
 生まれては死んでいく人間は、どこからきたのか。そしてどこへむかって去るのか。それは、わたしにはわからないことだ。そういう人間にとって家などは、みじかい生のあいだを過ごす、ほんのしばらくの居場所にすぎない。
 そのことを人々はわきまえているだろうか。たとえば、いざ家を建てるとなると、人はひどく神経をすりへらし、できあがるとあかずながめて楽しむ。それはだれのため、なんのためか。これもまた、わたしにはわからないことである。
 家も、住む人も、おなじはかない存在ではないか。どっちが先にこの世から姿を消すか、という時期の早い遅いをあらそっている、とすらいえそうな両者である。これはまさに朝顔とその花びらに宿る朝露の関係である。
 花と朝露。あるときは露が先に落ち、花がのこる。が、その花も日をあびると、じきしおれる。あるときは花が先にしぼみ、露がのこる。そのときも、夕がたまで露がもつというわけにはいかないのである。

方丈記』 鴨長明 著
現代語訳 『少年少女古典文学館 徒然草方丈記講談社)』
     三木卓 より引用

『方丈記』をブログの参考にして、ゆる~く書いてみる

なんだかんだでブログを始めて160もの記事を書いた。

まさか自分がこんなに続くとは思わなった。

それなりに書いて感じたことわかったことがあったので、

一つ書いてみようと思う。

 

他の人のブログを見てると本当に十人十色であり、

色々な記事がある。

ブログというと僕がすぐさま思い浮かぶのは炎上系だ。

自分の考えを載せたらそれが瞬く間に物議を醸し出し、

非難中傷の渦になる。

僕はそういうものには巻き込まれたくないので、

比較的物事をやんわり書くように心掛けてはいるつもりだ

まぁそもそも炎上するということはその人にそれなりの文才なり

惹きつける力があるので、一つの能力とも見れる。

 

ここで僕が言いたいのは炎上が絶対悪とか言いたいわけではなく、

あまり角が立たず、比較的寝ながらのんびりとくつろいで見れるような

ブログなり記事を書ければいいと思っている。

 

結局のところ人間というのは矛盾の塊みたいなものなので、

なかなか断定的に物事を判断したり、行ったりするのは難しいと僕は考えている。

例えば、僕は旅行が好きでいい景色を見るのが好きだ。

だから元気のない時、気に病んでるときはいい旅行して、いい景色を見れば元気になる

でも実際はそんなことはない。

逆に旅行することによって気が滅入っているのがさらに悪化したケースもある。

人は物質で、数式で表せるものではなく、心というものがはいっていて

中々計算通りにはいかない。

 

これは文章にも同じことが言える。

今の自分の考えや思想をブログに載せても、何か自分に大きな価値観の変化が起きて、その考えや思想が変わってしまうかもしれない。

いやそもそも価値観の変化という大それたものでなくも十分に起きる。

気分がそうだ。

今日は喫茶店でのんびりしたい気分でも、明日には身体を動かしたくて、逆に喫茶店にいるとイライラしてくるかもしれない。

 

ブログを始めた当初は自分の考えや価値観を割と固定させて書いてみたが、

意外にストレスになることを発見した。

頭をベルトで締め付けられるような、窮屈な感じがした。

いつかの記事で僕はなんで同じことを何度も書くのかという記事を書いたが、

結局は僕という人間は物事に縛り付けれるのが苦手な人間であり、気分によって文章を書きたいということだ。

気分で書くということは同じような事でも価値観が変わってるかもしれないし、文章のニュアンスも変わってくる。

そういうふわふわした感じの文章を書くのが自分には合っていると感じだ。

これはブログを始めたからこそ発見したものだ。

 

ブログってネット社会が普及してから始まったようなイメージがあるが、要は公開型の日記としてみれば、昔から日本はやっていたりする。

方丈記』なんかはそれに該当する。

方丈記』は平安末期から鎌倉時代にかけて鴨長明という世捨て人によって記録された日記だが、これが案外ゆるい感じに書かれておもしろい。

現代でいうとphaさんに近いかもしれない。

ある人は『方丈記』の内容は愚痴っぽいとも言うが、別に過激に他人を中傷するようなこともなく、世の中の無常さ、儚さを淡々と歌のように書いてある。

これは現代のブログでも大いに参考になりそうな内容なり、文章表現だと僕は個人的に想っている。

 

だらだらと長いこと書いたけど、

僕はブログではゆるく、書きたいときに書いて、価値観を変に固定することなく、気の向くままにやっていければいいと思っている。

 

便利になると人の心に不便をもたらす。

昔よりも今の方が便利だけど窮屈になってるのかなぁよくと思う。

インターネット、スマホの普及によって

いつでも、どこでも簡単に友達と連絡できるし、情報も簡単に手に入れら

れる。

しかもSNSの普及により誰もが情報を発信できるようになった。

このおかげで僕もブログを立ち上げてツイッターにアップできるし、

みんながそれぞれの発信した情報を共有できる。

こうやって書くといいこと尽くしのような感じもするけど、

世の中うまくできていて、悪いこともちょこちょこでてくる。

 

いつもでも、どこでも簡単に連絡できるということは、裏を返せば、自分の都合関係なく、相手の都合でいつでもどこもで連絡がくるということだ。

そろそろ寝ようかなぁと思う時にラインがくる。

バイブがなってスマホの画面を見ると、返信は明日でいいやと思って

既読にせず、そのまま寝る。

でもこの既読機能があるおかげで、なんか相手に罪悪感を感じてしまう。

本当は単にラインを開いてないだけで、画面を確認してるから未読を装ってることになりる。

そういう自分が少し嫌になる。

まぁこれがまだ友達ならいいけど、職場の上司とかだったらかなりストレスになるだろう。

次の日に「すいません、昨日は寝てたんですぐに返せませんでした。」

という嘘の言い訳を伝えなくてはならない。

これは結構な労力が必要だ。

 

SNSも中々やっかいだ。

あれってポジティブなことを書くのが礼儀みたいになってる。

だから画面を開くとたいていキラキラしてる記事が多い。

自分が究極に落ち込んでいる時にみると毒以外の何物でもないと感じる。

「あ~、俺何やってるんだろ。」

「みんな楽しそうにしてる中、俺は仕事で疲れて休日でも布団の中だよ」

とまぁこんな感じだ。

まるでSNSを見るとネガティブ=悪のようなイメージを自然と植えつけられる。

 

僕はそういうのがもう嫌になって、SNSに関してはほとんどやらなくなった。

他人に共有を求めなくても大丈夫なようにやっていこうとした。

まぁこうやってほそぼそとブログをやるのが調度良いと感じだ。

 

ネット社会になって便利な反面、常に監視されている感じもするし、SNSとか見るとポジティブなものに偏ってる。

昔はそんなものは一切なかったから不便だけど、ラインの返信のことで悩まなくていいし、SNS見て落ち込むこともなければ、偏った価値観を植えつけられることもない。

しかも不便が当たり前ということは人の懐も大きかったと思う。

今やネット注文で指定日配達や美容室の予約、ナビを設定すれば迷わずいける。

要は思い通りになることが当たり前だ。

それが昔は一切なかったわけだから、思い通りにならなくて当たり前。

きっと昔の人は「まっ世の中こんなもんでしょ」

というのが普通だった。

でも今はちがう。

ちょっとでも道に迷ったらイライラするだろうし、美容室の予約を取ったのに、指定の時間になっても呼ばれなかったらもう待てない。

現に僕の担当してる美容師さんが、昔に比べてそういうお客さんが増えてると言っていた。

 

とまぁこんな感じで人の心もせかせかして窮屈になりやすい環境になってる気がする。

便利なものはどこか人の心に不便をもたらす。

そういうことを少し頭に入れて生活するのも大事だなあと思う。

書くことで得られたもの

平凡な日常
些細な事柄

端から見ればたいしたことのない人生でも書くことで、人生が彩られるかもしれない。

書くことは僕の想像に彩りを与え、現実にも与えてくれるかもしれない。
だから僕は日々励むことが出来るようになってきている。

仕事との向き合い方

仕事のモチベーションがどうしてもあがらない

やる気が出ない

嫌でしょうがない

そんな時どうすればいいのか。

 

僕はいつもこれらの悩みに苛まれ、

結局答えを見つけられずに何日も鬱屈した日々を過ごす。

 

自分なりに仕事を楽しめるように工夫してみたこともある。

最初の数日はうまくいくが、

結局1週間ぐらいするとガス欠になってくたばる。

そして休日は寝込んでしまい余計に体調が悪くなる。

 

じゃあいっそのこと仕事はつまらない、辛いものだと割り切ってみたりもするが、

それはそれで自分がまるで奴隷になったような気分になる。

だんだんと精神が荒廃していく感覚がある。

 

ふと思ったが、そもそも僕は仕事に対してあれこれ考えすぎてるのかもしれない。

 

そもそも僕にとって仕事とは何か

それは生きるためである。

仕事=生業である。

 

しかし、今の時代、仕事は自己実現、自分らしさという

ファッショナブルな意味合いもある。

昔より仕事はキラキラしたものというイメージが作られている。

(特に就活の説明会ではそのイメージ作りが甚だしい気がする。今にして思えばあの異様なギラギラした雰囲気はなんだったんだろう。)

 

こういう仕事に対するイメージが僕を混乱させてい気がする。

 

仕事=生業と僕は書いたが、それは仕事が非常に地味で泥臭いものを連想させる。

今の時代、仕事=生業という捉え方で働くということは、

かわいそうなことであり、残念なことであり、負け組

ということを暗に認識させられる。

なぜなら地味なことはSNSにアップすることも出来ず、他人と共有するネタではないからだ。

つまり間接的に自分は影の立場にいる人間ということをアップしないことによって認識する。

 

でも僕からしてみれば仕事=生業こそが本質だと思う。

今日、明日を生きるために僕らは仕事をする。

決して自己実現、自分らしさの為に仕事しているわけではない。

そういったものはあくまで付随的なものに過ぎない。

 

日本は豊かになったから自己実現、自分らしさを求めるようになったんだと思う。

もし貧しくて生きるのがやっとの状態なら、多くの人は自己実現、自分らしさというものを捨てて、金を選び、生きようとするだろう。

 

仕事の本質は生業である。

豊かな時代だからこそ、今はその本質が隠れているが、

僕たちの本能はそのことを決して忘れはしない。

生業ということは僕らは生きるという真っ当な行為をしているということだ。

だから他人や世間からどんなイメージを持たれていようが、

自分の仕事に誇りをもっていいと思う。

だってあなたは仕事によって精一杯生きているのだから。

僕はこの生業という言葉を知ることによって救われた。

 

僕は生業という言葉を得てから、仕事に対して無心に取り組もうと思った。

生きるということは無心になって淡々とコツコツやることのような気がするからだ。

それが仕事であり、生業であると僕は思う。

 

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あなたはその声に耳を澄ますだけでいい

自分の心に耳を澄ませてごらん
やさしくノックしてごらん
手の甲で軽く「コンコン」と
そしたらドアの向こう側から
小さな手で「トントン」と返事をしてくれるかもしれない

そっとドアに耳を当ててごらん
そしたらドアの向こうから
小さな小さな声で囁いてくれるかもしれない

その声はあなたの本当の想いを発してくれるかもしれない
あなたはその声に耳を澄ますだけでいいんだよ