ぽろっぽの日記

人生、読書、健康、つれづれ。ー日々感じたことを言葉と写真で表現したいー

自転車で碓氷峠に行った

久々に自転車で遠出をしてみた。
途中まで自転車を専用の袋に包んで、現地まで電車でいった(輪行と言う)。
自宅の埼玉から群馬県の横川駅まで輪行した。
車内は平日の朝と言うこともあり通勤、通学の乗客で結構混んでた。

電車に揺られること2時間弱で到着。
本とか読んでいると、案外早く着いたという感じ。
8時前に現地に着いたので、夕方まで時間はある。

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横川駅と言ったら釜飯
買わなかったけどね。

サクサクっとチャリを組み立てて出発

碓氷峠までのメインロード国道18号

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今回はめがね橋を見たいので、バイパスではなく旧道を使う。

 

御サルさんも出るぐらいひっそりとしている。

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クマはでませんように・・・

緩い勾配をのんびりキコキコこぐと、めがね橋発見

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写真で見ると伝わりづらいけど、かなり大きく、目の前に橋が迫ってくる感覚だ。
レンガの重厚感、風化の感じが歴史を感じさせる。

橋でいうと、個人的には岩国の錦帯橋よりこっちの方が好みだ。

歴史的には錦帯橋が古いんだけどね。
このレンガの圧倒的な重厚感、険しい山間にある感じが現代から過去に自分を連れていってくれる雰囲気を醸し出している。
歴史に想いを馳せるとはこういうことを言うんだろうなぁ。
風景を見て考えるんじゃなくて、感じる

 

案内板すらも歴史を感じさせる。

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高崎鉄道管理局
管理局っていう響きが、国有感たっぷりで、良くも悪くもそそられるものを感じる。

クマに襲われたくないなぁ
鈴持っておいた方がいいのかな

再び出発
ひたすら緩い勾配の坂がつらつら続く。
勾配でいうならいろは坂の方がきついかな。

たんたんとこいで、無事到着。

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結構カーブがあった。


軽井沢~佐久の下り坂から見る景色。

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ここの景色に出会うのは2度目だけど、何度来てもいい。
やっぱり信州の景色は関東とは違う
広大、雄大という言葉がしっくりくる。

 

佐久から再び群馬方面に引き返す。
帰りは下仁田がゴールになる。

国道254号の景色は特に印象はない感じだ。
でも荒船山は独特の形をしていて中々良い。

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無事に下仁田駅到着。

 

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こういうのぼりって首都圏じゃ許されない気がする。
ちょっとゆるい感じが良い。
健康に気を付けましょう、人に迷惑をかけないようにしましょう。
もちろんそういうのは大事だけど、あまりにも強すぎると疲れる気がする。
だからこういうのぼりを見るとちょっと肩の力が抜ける。

そんなこんなで本日の工程終了。

今日は良く眠れたみたいなので、身体の調子がすこぶる良かった。
やっぱり睡眠は大事。
また後日に睡眠について書きたいと思う。

ワァッーと全力で身体が叫びたがっている

自分の中で何かを求めている
でも何を求めているのかわからない
生きること
表現すること
根源的な何か
ワァッーと全力で身体が叫びたがっている
でも僕はその叫び方を知らない
だからこうして書いたり、身体を動かす
とにかく動き続けよう
動けばいつか何かに巡り合えるかもしれない
ガムシャラかつ冷静に
限られた時間の中で精一杯やれることをやるしかない

キャンプとバーベキューを積極的にやろうかな

この夏は三回はど野外でバーベキューをした

一回目は館山の浜辺
二回目は富士五湖の湖畔
三回目は親戚の庭

一回目は1人
二回目は友人と
三回目は親戚と

それぞれ場所もメンバーも違うけど、それぞれの楽しさがある

1人で気ままもいい
友達とわいわいやるもよし
親戚とは最初はちゃっと緊張しながらも、美味しい食べ物とお酒に囲まれて少しずつ打ち解ける感じもいい

次は嫁とやってみたいな

自分は大人数と行動するのが苦手
独りで自然と向き合うのが好き
だけどずっと独りだと寂しいから限られた仲間と行動したい
案外キャンプ、バーベキューとかアウトドアが自分にあってるのかもしれない
緩くみんなでわいわい過ごす
飲み会のように変に空気を読む必要もない
自分のペースで気ままに楽しむ
そう、僕は気ままに過ごしたいんだ

これから積極的にキャンプ、バーベキューやってみようかな

難しいこと考えずに、ふと心に惹かれるものがあったらやってみよう

難しいこと考えずに、ふと心に惹かれるものがあったらやってみよう

 

やってみると何かが見えてくる

 

やらなきゃよかった

 

やってよかった

 

次はこうしてみよう

 

行動に移すことによって次の行動が見えてくる

 

難しいことは考えなくていいんだ

 

難しいことは頭の良い人に任せればいい

 

ゆっくりでもいい

 

周りを見てはいけない

 

君は君のペースがある

 

少しずつでいいから身体を動かしてみよう

 

具体的に行動してごらん、具体的な答えが出てくるから

具体的に動いてごらん
そうすれば具体的に答えが出てくるから

 

たしか相田みつをはこんなことを言ってた
中々的を得ていると感じる。
というのも、僕はその真逆の行動をしてよく失敗するからだ。

抽象的に考え
抽象的な答えしか出てこない
そこには明確な答えが出てこない
出てくるのはモヤモヤした気持ちだけだ

 

僕はいつもこんな感じになる。

 

岡本太郎
でたらめをやってごらん
と言う

 

でたらめにやったら
でたらめの答えが出るだろう
でも答えがでてくることは確かだ。

つまり何か具体的な行動をしない限りは答えが出ないということだ。
今の僕の生活は具体的な行動が足りない。
だから具体的な答えが出ずに途方に暮れている。

 

今の僕は、生活の変化、自分の変化を求めている。

それなのに僕は具体的な行動をしていない。
本を読んで、頭の中でぐるぐる考えている(考えてるかどうかもあやしい)だけだ。
本を読むことは大事だ。
でもそこから具体的な行動に移すことが大事なんだと思う。

じゃあどうしてそこまで自分の中で結論が出せているのに行動に移せないのか。


具体的に失敗するのが怖い
頭の中で考えて、頭の中で結論を出す方が楽


要は具体的に失敗することが怖いのと、行動が億劫になっているだけのことなのだ。

でもそんなことをしてたら何も始まらない。何も変わらない。
失敗してもいい。
具体的に失敗したら、その失敗は繰り返さない。
たくさん失敗したら、その分だけ答えに近づく。
いかにたくさん失敗するか。
それが自分の求めている答えに近づく最も確実な方法だ。
なら失敗するしかない。

 

僕は今、車を欲しいと思っている。
でも家計的な問題や、果たして買って本当に正しいと思う自分がいるのか自信がない。
だからいつもひたすら中古車情報を見てるだけで、頭の中で想像してるだけだった。
車を持つことに対して、具体的に調べず、、具体的な答えを出していなかった。

 

結局のところ具体的な答えを出して、車を買えないとわかった時の自分のショックを経験するのが嫌だったんだと思う。

 

だからいつも頭の中で漠然とモヤモヤしたものがあった。

このままじゃいつまでたっても前に進まない。
そう思って、昨日は車を持つとどうなるか、具体的に調べ、具体的な答えをだした。
一番の問題は経済的な問題だ。
車を持つと多くの維持費がかかる。

駐車場代
保険代
車検代
メンテナンス代
ガス代

実際どれぐらいかかるのか今まで漠然としか把握していなかった。
だから一つ一つ調べてみた。
そしたら案外、持てそうだということがわかった。
保険料も見積もりを出したら思いのほか安い。
駐車場も思いのほか安かった。
自分が頭の中で考えていた漠然とした費用よりも案外安いじゃないか。
そう感じた。

 

次にどの車で自分は満足できるかということだ。
だから色々なレンタカーを借りてみた。
そうすると自分の好みがわかってくる。
流行りの車種や新しい型が必ずしも、自分の好みとは限らないことがわかってきた。

 

すごく、本当にすごく小さなことだけど、こうやって具体的に行動すると何かが見えてくる。
考えることが必要になってくるのは、なぜ失敗したかの原因を突き止める時だ。
行動する前から必要以上に考える必要はない。
むしろ、僕の性質上毒だ。

 

今の僕に一番足りないのは具体的な行動だ。
どんどん行動してどんどん失敗してみよう。

体験と実感は別物なのかもしれない

雨にも色々な表情がある。
僕は生まれて30年にしてそのことを実感した。
雨事態にいろいろな降り方があるという事実は昔から知っていた。
でもそのことに身体の底から感じることは今までなかった。
だから実感という体験はしていなかった。

今年の夏は雨が多い夏で、梅雨が再び日本列島にUターンしたきたみたいだった。
朝起きて、ベランダに面している窓のカーテンを開けるとやっぱり今日も雨だった。
「また今日も雨か」
せっかくの休日なのに、思わずため息をつきかけようとしたとき、
ふと耳に心地よい音が聞こえた。

しとしと
ぽたぽた
ざー

どれも違う音だ。
例えて言うなら滝の傍で水しぶきが上がって、それがまるで霧雨のように振っているような感覚だ。
僕はこの音を言葉で表すことが出来ない。
でもその時の感覚ははっきりと身体に記憶に刻まれている。

その時僕は感じた。
雨にも色々な表情があるんだと。
今まで実際にこの目で色んな雨を見たりしてきたけど、なぜか今日は違う感覚だった。
雨を観察物や対象物として見るのではなく、自分がその雨に入り込んだ感覚とでも言えばいいのだろうか。
僕にはこのことをうまく表現できない。
でもたしかに感じたことだった。
体験と実感は別物なのかもしれない。
その時そうとも感じだ。

僕は夢見ることを望む

夢を見ることは生きていくうえで必要な行為だと思う。
寝ている時に見る夢
将来の夢
どちらも人間にとっては必要な夢だ。

前者は動物でも見る夢だ。
しかし、後者は人間でしか見られない夢だろう。

では前者と後者の間(はざま)にある夢はあるのだろか。
僕はあると思う。
寝ている時に見る夢と将来の夢が混ざることによって生み出されるのが芸術と呼ばれるものだ。
これはあくまで僕の推理だ。
科学的な根拠など全くないし、誰かが言ったわけでもない。

芸術は生きることそのものだ。
ある人はそんなことを言った。
それならば夢を見ることも生きることそのものだ。
僕の推理が正しかったならばこの定理も成り立つはずだ。
逆に言えば夢見ることをやめれば生きることをやめること。
そういうことにもなる。

果たして今の人は夢を見ているのだろうか。
僕にはわからない。
見ているには見ているだろうけど、夢の量が不足しているようにも感じる。

僕は夢見ることを望む。
そしてそれを現実の世界に出していきたいと思う。