ぽろっぽの日記

人生、読書、健康、つれづれ。ー日々感じたことを言葉と写真で表現したいー

春のお迎えに気をつけろ

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春は暖かくて気持ちがいい

ようやく長く寒い冬が終わり風が心地よい

でも春は危険な季節だ

年度末の仕事からようやく解放され

春の暖かさがより僕たちを迎えてくれる

何を迎えてくれる?

死神のお迎え?

僕は仕事帰りの自転車で

春があまりに心地がよく

その心地よさに一種の気味悪さを感じた

何かが僕を手招きして誘う

こっちにおいでと・・・

 

冬の寒さと仕事の忙しから解放され、

季節は変わり春になり暖かくなる

身体の緊張が一気にほぐされる

気を付けなければいけない

 

僕は死にたいと思ったことはない

でも今日みたいに暖かい日はそんな僕でも危ないと感じた

あまりにも穏やかすぎる

張りつめてたものが一気になくなる

その瞬間、心に隙ができる

その隙を彼らは狙ってくる

 

我に帰ろう

あなたはまだここにいるべき人間だ

あちらには行くにはまだ早い

 

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~少しでも多くの方が救われますように~

 

 

「生きる」ことの定義を変えるか、それとも環境を変えるか

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生きるって何だろう

こんな疑問は誰もが持ったことはあると思う。

日常の生活に疲れ、ふと心が緩んだ時に浮かび上がってくる。

僕にとって生きるっていうのは

 

寝て

食べて

排泄して

考えて

喜んだり

悲しんだり

怒ったり

 

ところが日々の仕事に追われたりして、食べる、寝る、考える、喜ぶなど

基本的なことが出来なくなると、僕の定義する「生きる」が出来なくなる。

そこで人は生きるって何だろうと考える。

 

僕の定義の「生きる」が出来なくなった人はそもそも「生きる」定義を変える必要がでるかもしれない。

あるいは「生きる」定義を変えずに「生きる」ことが出来る環境に身を移すことが必要かもしれない。

 

僕は「生きる」定義を変えたくはなかった。

寝て

考えて

喜ぶ

などを失いたくはなかった

 

前の会社に居続けるには「生きる」定義を変える必要があった。

僕にはそれが耐えられなかった。

だから僕は「生きる」定義を変えずに、環境を変えた。

「生きる」定義は人それぞれ

大事なことは自分の中で「生きる」定義を持ち、客観的に自分を見ることだと思う。

自分の生きる定義を思い切って変えてもいい

あるいは定義はそのままで環境を変えてもいい

自分なりに感じたことや考えたことをありのままに見ると

少しだけ自分の進みたい方向がわかるんじゃないかな

 

 

少しだけ子供に返った気持ちになった

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気付くとシャッターを押していた

カメラを始めるまで、雨の通りを撮ろうなんて考えたこともなかった

日常の世界を日常に見ない

少しだけ子供に返った気持ちになった

その日の体調、気分によって気分転換の方法を変えてみる

相変わらず調子が悪い日が続いている。

食べ物に気を付けてるお陰か、下痢もして割と弱ってたけど、今はお腹に関しては小康状態だ。

でも気分が優れなくて休みの日はぼーっとしてることが多い。

今日は休日だけど、何をしたいかよくわからず、午前中はうだうだしていた。

とりあえず布団から出たい気持ちはあって、起きたものの、ぼーっと音楽聞いたり、本読んだりしながら過ごしていた。

 

家にいても特に気分的に良くならなそうだったので、思い切って外に出ることにした。

近くの喫茶店でも行こうかと思ったが、あいにく席が混んでてゆっくり出来そうもなかった。

頭も痛くなってきて、もうこのまま帰ろうかと思ったが、帰っても良くならないような気がしたので、結局新宿まで行くことにした。

 

新宿に着いたら、よく行く喫茶店に入り、一息つくとようやくほんの少しではあるけど、気分が良くなってきた。

 

気分が優れない時はぼーっとしたり、横になったり、散歩に出たりするが、劇的に良くなることはない。ほんの少しだけ気分が落ち着く程度。

でもこれだけでも昔に比べたらかなり改善された。

昔はそんな自分に自己嫌悪し、ますます悪化させ、布団からほぼ出られない日を何日も過ごした。

今はそうなることがない。

この自己嫌悪をしないだけでもかなりの効果がある。

 

憂鬱な気分で休日を過ごすときに心がけてることは、自己嫌悪に陥らず、ただただ自分を冷静に俯瞰する。

今の自分の状態を可能な限り受け入れ、嵐が過ぎ去るようにただ待つ。

そして何か気分転換の方法が見つかりそうなときはそれを実行してみる。

 

今の僕にとって、何かの気分転換とは喫茶店に入って、ぼーっとすることだったり、こうやってブログを更新することだ。

自分の場合、気分転換をする際、下手に方法を絞り込まない方がいい気がする。

体調が割といい時は運動もいいが、あまりよくない時に無理して運動しても逆効果だ。

昔、とにかく休日は身体を動かすように意識してやったが、結局疲れてしまい、また布団にこもる生活を送ったことがある。

 

自分の体調や気分を見極めるのは難しいが、ふっと力を抜いたときに思いつくことをやるといいかもしれない。

 

 

 

 

なぜ僕は同じようなことを書き続けるのか

なぜ僕は同じようなことを書き続けるのか。

自分でもよくわからないけど、書くことはだいたい似通っている記事が多い。

 

自信がないからこと書くことによって自己暗示をかけている

考えていることがいつも同じだから書くことが同じになる

同じ事でも書き続けることによって、より自分の感じていることが明瞭になってくる

 

 

思いつくまま理由を挙げてみたけど、どれも当てはまりそうだ。

特に3つ目の

同じ事でも書き続けることによって、より自分の感じていることが明瞭になってくる」

は自分にとって重要なことであると思う。

自分が感じていることを言葉にすることは簡単なようで難しい。

自分の言葉を書いているようで人の言葉を借りていたり、カッコ良い言葉にしようとして、本来、自分が感じていることから離れてしまっていたりする。

そもそも、自分の言葉は日本語という言語に限定されているし、感じていることを言葉に変換するという行為自体が、既に感じていることを言葉にすることが非常に困難な作業だと思う。

 

それでも僕は同じことを書き続ける。

なぜか。

書き続けることによって、ほんの少しづつではあるが、確実に自分の言葉になっている実感があるからだ。

書き続けることによって見えてくる世界がある。

それが純粋に楽しい行為でもあるし、自己肯定にもつながっている。

 

同じ事でも書くことによって、より自分の感じていること思考が明瞭になり、自信になり、力になる。

だから僕は同じことでも書き続ける。

 

 

 

 

 

怖がらず裸の自分でいよう

相変わらず体調が悪い

腹の調子は回復しつつあるけど、倦怠感が中々とれない

こんなときは無理せずのんびりするに限る

何もしない時間も大切

家でぼーっとするもよし

喫茶店でぼーっとするもよし

気が向いたときにやりたいことをやればいい

自分の時間は好きに使っていいんだ

 

僕はいつも

「こうしなければならない」

そんな気持ちに囚われてしまう

 

自転車に乗るときは、身体を鍛える為にはもっと早くこがなきゃ

喫茶店にいるときは本を読まなきゃ

電車に乗ってる時も本を読まなきゃ

外出するからにはそれなりの場所に出掛けなきゃ

 

自分で自分の身体を縄をガチガチに締め付けてしまう

でもさ

もうそういうのは辞めてもいいんじゃないかな

~しなきゃというのは自分に自信がない証拠

何かをするという名目で裸の自分を隠しているんだ

もっと窮屈な服や鎧を纏うより裸の自分の方がずっと気持ちいい

 

何も考えず自転車に乗ってる時を思い出してごらん

ただただ喫茶店でぼーっとしてる時の時間を思い出してごらん

何をすることもなく電車で窓の景色を眺めてる時のことを思い出してごらん

 

不思議と気分は晴れ晴れしてることが多いんじゃないかな

 

怖がらずに裸の自分でいよう