ぽろっぽの日記

人生、読書、健康、つれづれ。ー日々感じたことを言葉と写真で表現したいー

僕にとってのブログの目的をもう一度考えてみた

今更ながらブログの目的について考えてみた。

当初のブログの目的は自分の思考をアウトプットすることだった。

僕は頭の中でグルグル考えて何も解決しないことがほとんであり、むしろ解決するどころか、体調が悪くなる一方だったので、その解決策の一つとしてブログをやってみることにした。

今でもそれは変わらない。

でもその他にも目的があった。

稼げるブログ

人のためになるブログ

いいね!をしてもらうブログ

 

しかし、かれこれブログを始めて2年近くなるが、結局のところ自分の思考をアウトプットすることと、少しでも人のためになるなるような記事を書きたいと思うようになってきた。

人のためとか書くと綺麗ごとにも聞こえるが、やっぱり人のためにならないことを書き続けても、結局虚しくなる自分がいることに気づいた。

突き詰めれば人のため=いいね!をしてもらいたい

ということになるかもしれないけど、

いいね!をしてもらうために周囲に迎合したり、媚びを売る文章もストレスになる。

以前はおもしろく、わかりやすい文章も心がけたが、それは他人が書いた文章のようであり、かなりのストレスになっていた。

 

自分の思考をアウトプットしつつも、少しでも人のためになるブログ

 

今の自分はそんなブログを目指しているんだと思う。

出来る限り、自分の考えを正確に把握し、自分の気持ち正直な形で文字にする。

だけど、それには人によっては不快を与える文章になる。

中には過激な文章を書いてそれをビジネスにしている人もいる。

別にそれが絶対悪とは思わない。

その人の個性だし、自分に正直に行動しているだけかもしれない。

正直に生きるということは人を傷つけ、不快にさせるということでもある。

僕は自分の心がそこまで強くないし、自分をそこまでに追い込むことはできない。

出来る限り相手に悲しい思いをさせたくない。

だから自分の正直な気持ちは知りつつも、できる限り柔らかい文章を書きたい。

自分の気持ちを率直かつ、柔らかく伝えるならきっと、詩や小説などの表現が一番いいんだと思う。

正直すぎる文章は角が立つ

かといって柔らかすぎたら真意が伝わらない

そういう意味で詩や小説はその絶妙な場所に文章を落ち着けることが出来る。

でも残念ながら僕はそういう技術は持ち合わせていない。

だからブログを書くということは常に自分の本心との距離の葛藤がある。

でも書き続けることによってある程度その距離は縮められるということが可能なはずだ。

少なくともブログを始めた当初よりは僕は自分の気持ちを正確に表現できるようになっている実感があるし、文章も自分なりのスタイルが出来つつある。

 

繰り返して言うが、綺麗ごとかもしれないけど、

自分の思考をアウトプットしつつも、少しでも人のためになるブログ

そんなブログを今は目指している。

 

 

ボーっと出来ない

今日も相変わらず体調がイマイチだ。

頭がボーっとして何もする気になれない。

日曜日なのでこんな時は家でのんびりしたいところだけど、今日に限って資格試験があり、今はとある大学のキャンパスにいる。

普段だったら試験時間の合間は勉強するなり、本を読むなりして時間をつぶせるけど、今日はまったく駄目だ。

かといってボーっとすることも出来ない。

ボーっとしようとしても頭の中で何か考えようとしてあまり休まらない。

だからこうしてブログを書くことによって、頭の中でぐるぐる考えていることを少しでも言語化して外に吐き出そうと試みている。

 

うん、こうやってとりとめのないことでも書き出してみると、中々頭がスッキリしてくる気がする。

とにかく手を動かして(キーボードを叩くことが手を動かすことなのか?)外に吐き出す、視覚化することは身体に良いみたいだ。

 

ボーっとすることが出来ない。

これって結構危ないことなのかなと思う。ボーっとしても何かを考えようして、自然と意識が頭の中にいってしまう。

悩み、不安など、考えざるを得ないことに脳が支配されている。

要は煩悩

心が落ち着いてない証拠だ。

自分の中で無意識に考えることによって、「物事が解決できる」、「不安が解消される」そんな風に刷り込まれている気がする。

ある本で脳は楽をするように出来ていると書いてあったのを見た記憶がある(養老孟司だったかな?)。

出来る限り自分では身体を動かすに、そして思考も煩雑なことはせずに可能な限り労力を払わないようにする。

スマートフォンはまさにその象徴だ。

指先だけで、好きなものは手に入るし、情報も検索で絞りこめば効率良く入手できる。

肉体的労力、知的労力のコストを極力抑えることが出来る。

まさに脳が求める機能そのものだ。

 

少し脱線したが、今の自分もそんな状態にある。

きっと心の奥底に悩み、不安があって、それを解消したい。

脳は出来る限り楽にその悩み、不安を解消しようとする。

だから頭の中だけでグルグル考えてしまう。

手足は動かなくていいし、グルグル考えれば思考は単純になる。

おなじ問題を出し、同じ答えを用意する。

その繰り返し。

グルグル考えるというのはそういうことだ。

つまり考えているようで考えてない。

思考の進歩がない。

下手の考えとはこういうことを言うんだろうな。

しかもタチが悪いのは頭の中でグルグル考えてるだけで、文字にされてないから自分が同じことをひたすら考え続けてることに自覚があまりない。

今、文字にすることによって自覚する。

「また同じこと考えてるわ」

身体を使って文字にして初めて自覚する。

 

頭の中でとりとめなく考えていることを文字にして、外に吐き出す。

そうすればぼーっとできるかもしれない。

とりあえずこうやって書いたことによって少しスッキリしました。

 

 

 

 

 

下手の考え休むに似たりというけど、むしろ毒だと思う

昨日から疲れ気味で思考がまとまっていない。

考えることが億劫になってる。

それでも何かしら考えようとしてる自分がいることに気づく。

下手の考え休むに似たり

こんな諺があるけど、僕から言わすと

下手の考え毒を飲むに似たり

と感じる。

ぐるぐるまとまらないことを考えようとしてどんどん体調が悪くなる。

思い返すと布団から抜け出せなかったときは、この負のスパイラルにはまってた。

寝ながらぐるぐる考え、ますます体調が悪くなり、布団からもっと抜け出せなくなる。

だから最近はいっそのこと考えないように努めている。

考えないように努めるといっても、何もせず考えないのは難しい。

だから身体を使って考えないようにする。

そして出来る限り身体を丁寧に使うように意識する。

身体を丁寧に使うというのは「考えながら作業しない」ことだ。

意識を身体に向け、丁寧に身体を使うと余計なことは考えないようになる。

身体は使う中で一番手っ取り早いのは運動だろう。

ももともと体調が悪い時に運動は中々酷だ。

そういう時僕は整理整頓したら、シャワー浴びたり、

珈琲をドリップしたりなど、手軽に始められそうなことをやる。

案外、そうしたことでも頭がスッキリして身体が動いてくる。

布団から中々抜け出せなくて悩んでる人は、まずは難しいことは考えずに手軽に出来ることからやってみてはどうだろうか。

 

 

 

 

 

 

本気でやるしかない

文章を書こうとすると、どうしても身構えてしまう。

上手く書こうとすると言葉が自分の気持ちから離れていく。

自分の気持ちのまま書こうとすると、支離滅裂な言葉になる。
だから言葉を知るのは大事なのかなと思う。
あるいは身体の使い方を学んで、自分の気持ちを表現することが大事だと思う。

でも一番大切なことは自分の気持ちを精一杯出そうとする姿勢なんだと思う。
それをしないかぎり何も始まらない。
偽りから始めたら偽りでしか終わらない。

本気で始めるから本気で終わることが出来る。

まずは本気で始めることからしよう。

上手くいかなくてもいいから。

カッコ悪くてもいいから。

そこから僕という人間が出来てくることを信じて。

仕事帰りの雨上がりの夕日

 雨上がりの夕日は綺麗だ。

 仕事が終わっていつもの道を自転車で帰る。

 いつもの道だけど、今日はいつもと違った。

 

 空気が澄んでいる。

 雨で汚れを落としたのだろう。

 いつもは見えない上州の山々まで見える。

 

 秩父連山の方はまだかすんでいる。

 そこでは雨が降っているのかもしれない。

 それでも雲間から陽光があふれてきている。

 雲は灰色から白色、赤色、紫色と交じり合っている。

 

 木々の間を走ると、木漏れ日がある。

 まるで森の中を歩いているようだ。

 

 いつもの道、いつもなら仕事のことを考えながら自転車をこいでいるけど、今日は違う。

 気持ちいつもよりゆっくりと漕ぐ。

 満ち足りた時間だと思いながら、僕は家に向かっていた。

解らないものをそのまま飲み込む方丈記

僕は最近『方丈記』に夢中になっている。
 世の中の不条理さ、無常さ、儚さを余すところなく書いていて、しかもそれが単なる嘆きではなく、まるで一つの歌を聴いているような文章であり、とても心地良い気分にさせてくれる。
 無駄のない文章、美しい文章とはこういうものを言うのかもしれない。
 実際、方丈記を書いた鴨長明は、和歌において第一線で活躍した実力の持ち主であったようだ。

 方丈記を読むとまるで静かな山の中にある、簡素な家にいる気分になる。
 小鳥のさえずりと、そよ風に吹かれて、木々の葉がさらさらと心地よく揺れている。
 家にあるものは必要最低限のもので余計なものはない。
 そこでは世の中の煩わしさに惑わされることなく、静かに自分と自然が同居している。
 そんな感覚にさせてくれる本だ。

 この本は世間に埋没し、疲れ果てた人たちをそっと静かな場所に導いてくれる。
 その場所は決して煌びやかな世界でもないし、永遠の命が約束され、希望と幸福に満ち溢れたエデンの園でもない。
 はたまた極楽浄土でもない。
 あくまで現世の世界であり、俗世界である。
 しかしこの本を読むと、この俗世界の生き方を歌によって、そっと教えてくれる。
 そんな本である。
 
 人はなぜ死ぬのか、人はどこから来て、どこへ向かうのか。
 この本にはその問いに答えようとはしない。
 あくまで解らないことは解らないと、ありのままを受け入れ、飲み込もうとする。
 僕はそんなスタンスで書かれた『方丈記』がとても好きになった。
 
 解らないものは解らない。
 無理に答えを拵えようとしない。
 答えがないことは不安に感じることかもしれないけど、無理に答えを作る方が余計に不安にさせられると思う。
 変な例えだけど、無理に答えを作るということはエナジードリンクを飲んでることと同じことだと思う。
 無理に答えを作りだすことによって、一時的に不安を取り除いて、気分を無理に高める。
 その時は気分がいいけど、ある時急に不安に襲われることがある。
 
 現代は科学が発展して、解らないということが昔よりはるかに少なくなったと思う。
 解ること、解っていることが当たり前になってしまって、解らないことに対してみんな免疫がなくなっているんじゃないかな。
 だからみんな解らないことに対しては過剰に敏感になるし、受け入れられることが中々できない。
 自然災害が起こった時はその様子がよく現れている。
 
 でも、そもそも日本人は解らないことを受け入れていた民族と思う。 
 ありのままを受け入れていたんじゃないかな。
 今の日本はその葛藤にもがいているようにも感じられる。
 
 そもそも、物事を解ろうとする行為自体が、実は西洋からの輸入の思想だ。
 聖書の話を聞くと、その思想が端的に現れている。人が生まれる前の話、人が死んだ後の話、人間の性質など、色んなことが事細かく書かれている。
 聖書は精巧な論理で構成されている書物だと感じた。
 
 でも日本にはそういう本もなかったし、思想もなかった。そういうことが書かれた本なり、思想なりはみんな外から来たものだ。
 もともとの日本人は物事を論理的に正確に把握するというよりは、自然に寄り添って、感覚的に物事を把握しようとしていた。 
 方丈記はそういった日本人の根底にある思想を端的に表してるようにも感じられる。
 
 あくまでありのままに。
 無理することなく、自然のまま、等身大で生きようとする。
 僕はそんな生き方にすごく共感するし、自分もそんな生き方をしたい。
 最後に方丈記の原文をここに記したいと思う。

 

(原文)
 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。

―中略―

 朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。


(現代語訳)
 川はいつもおなじ姿で流れている。しかし、その流れをかたちづくっているのはおなじものではない。新しい水がたえず上流から流れてきては、そのまま下流にむかって流れさっていく。これがありのままの姿である。
 流れのよどみには、水のあわが浮かんでいる。あわは、いまここで消えていくかと思うと、またあちらに生まれる。あわの浮くよどみというおなじ情景ではあっても、じつは消えては生まれる、はかないくりかえしをわたしたちは見ているのだ。いつでもこわれないあわが、浮いているわけではない。
 この流れの水や、あわのあり方とおなじことが、人間のじっさいの姿や、住む家についてもいえる。

―中略―

 朝なくなる人がいる。夕がた生まれてくる人がいる。人間の命は、はかない運命の下にある。まったく、こちらで消えるとあちらで生まれてくる、水のあわのさまそっくりではないか。
 生まれては死んでいく人間は、どこからきたのか。そしてどこへむかって去るのか。それは、わたしにはわからないことだ。そういう人間にとって家などは、みじかい生のあいだを過ごす、ほんのしばらくの居場所にすぎない。
 そのことを人々はわきまえているだろうか。たとえば、いざ家を建てるとなると、人はひどく神経をすりへらし、できあがるとあかずながめて楽しむ。それはだれのため、なんのためか。これもまた、わたしにはわからないことである。
 家も、住む人も、おなじはかない存在ではないか。どっちが先にこの世から姿を消すか、という時期の早い遅いをあらそっている、とすらいえそうな両者である。これはまさに朝顔とその花びらに宿る朝露の関係である。
 花と朝露。あるときは露が先に落ち、花がのこる。が、その花も日をあびると、じきしおれる。あるときは花が先にしぼみ、露がのこる。そのときも、夕がたまで露がもつというわけにはいかないのである。

方丈記』 鴨長明 著
現代語訳 『少年少女古典文学館 徒然草方丈記講談社)』
     三木卓 より引用

『方丈記』をブログの参考にして、ゆる~く書いてみる

なんだかんだでブログを始めて160もの記事を書いた。

まさか自分がこんなに続くとは思わなった。

それなりに書いて感じたことわかったことがあったので、

一つ書いてみようと思う。

 

他の人のブログを見てると本当に十人十色であり、

色々な記事がある。

ブログというと僕がすぐさま思い浮かぶのは炎上系だ。

自分の考えを載せたらそれが瞬く間に物議を醸し出し、

非難中傷の渦になる。

僕はそういうものには巻き込まれたくないので、

比較的物事をやんわり書くように心掛けてはいるつもりだ

まぁそもそも炎上するということはその人にそれなりの文才なり

惹きつける力があるので、一つの能力とも見れる。

 

ここで僕が言いたいのは炎上が絶対悪とか言いたいわけではなく、

あまり角が立たず、比較的寝ながらのんびりとくつろいで見れるような

ブログなり記事を書ければいいと思っている。

 

結局のところ人間というのは矛盾の塊みたいなものなので、

なかなか断定的に物事を判断したり、行ったりするのは難しいと僕は考えている。

例えば、僕は旅行が好きでいい景色を見るのが好きだ。

だから元気のない時、気に病んでるときはいい旅行して、いい景色を見れば元気になる

でも実際はそんなことはない。

逆に旅行することによって気が滅入っているのがさらに悪化したケースもある。

人は物質で、数式で表せるものではなく、心というものがはいっていて

中々計算通りにはいかない。

 

これは文章にも同じことが言える。

今の自分の考えや思想をブログに載せても、何か自分に大きな価値観の変化が起きて、その考えや思想が変わってしまうかもしれない。

いやそもそも価値観の変化という大それたものでなくも十分に起きる。

気分がそうだ。

今日は喫茶店でのんびりしたい気分でも、明日には身体を動かしたくて、逆に喫茶店にいるとイライラしてくるかもしれない。

 

ブログを始めた当初は自分の考えや価値観を割と固定させて書いてみたが、

意外にストレスになることを発見した。

頭をベルトで締め付けられるような、窮屈な感じがした。

いつかの記事で僕はなんで同じことを何度も書くのかという記事を書いたが、

結局は僕という人間は物事に縛り付けれるのが苦手な人間であり、気分によって文章を書きたいということだ。

気分で書くということは同じような事でも価値観が変わってるかもしれないし、文章のニュアンスも変わってくる。

そういうふわふわした感じの文章を書くのが自分には合っていると感じだ。

これはブログを始めたからこそ発見したものだ。

 

ブログってネット社会が普及してから始まったようなイメージがあるが、要は公開型の日記としてみれば、昔から日本はやっていたりする。

方丈記』なんかはそれに該当する。

方丈記』は平安末期から鎌倉時代にかけて鴨長明という世捨て人によって記録された日記だが、これが案外ゆるい感じに書かれておもしろい。

現代でいうとphaさんに近いかもしれない。

ある人は『方丈記』の内容は愚痴っぽいとも言うが、別に過激に他人を中傷するようなこともなく、世の中の無常さ、儚さを淡々と歌のように書いてある。

これは現代のブログでも大いに参考になりそうな内容なり、文章表現だと僕は個人的に想っている。

 

だらだらと長いこと書いたけど、

僕はブログではゆるく、書きたいときに書いて、価値観を変に固定することなく、気の向くままにやっていければいいと思っている。