ぽろっぽの日記

人生、読書、健康、つれづれ。ー日々感じたことを言葉と写真で表現したいー

仕事との向き合い方

仕事のモチベーションがどうしてもあがらない

やる気が出ない

嫌でしょうがない

そんな時どうすればいいのか。

 

僕はいつもこれらの悩みに苛まれ、

結局答えを見つけられずに何日も鬱屈した日々を過ごす。

 

自分なりに仕事を楽しめるように工夫してみたこともある。

最初の数日はうまくいくが、

結局1週間ぐらいするとガス欠になってくたばる。

そして休日は寝込んでしまい余計に体調が悪くなる。

 

じゃあいっそのこと仕事はつまらない、辛いものだと割り切ってみたりもするが、

それはそれで自分がまるで奴隷になったような気分になる。

だんだんと精神が荒廃していく感覚がある。

 

ふと思ったが、そもそも僕は仕事に対してあれこれ考えすぎてるのかもしれない。

 

そもそも僕にとって仕事とは何か

それは生きるためである。

仕事=生業である。

 

しかし、今の時代、仕事は自己実現、自分らしさという

ファッショナブルな意味合いもある。

昔より仕事はキラキラしたものというイメージが作られている。

(特に就活の説明会ではそのイメージ作りが甚だしい気がする。今にして思えばあの異様なギラギラした雰囲気はなんだったんだろう。)

 

こういう仕事に対するイメージが僕を混乱させてい気がする。

 

仕事=生業と僕は書いたが、それは仕事が非常に地味で泥臭いものを連想させる。

今の時代、仕事=生業という捉え方で働くということは、

かわいそうなことであり、残念なことであり、負け組

ということを暗に認識させられる。

なぜなら地味なことはSNSにアップすることも出来ず、他人と共有するネタではないからだ。

つまり間接的に自分は影の立場にいる人間ということをアップしないことによって認識する。

 

でも僕からしてみれば仕事=生業こそが本質だと思う。

今日、明日を生きるために僕らは仕事をする。

決して自己実現、自分らしさの為に仕事しているわけではない。

そういったものはあくまで付随的なものに過ぎない。

 

日本は豊かになったから自己実現、自分らしさを求めるようになったんだと思う。

もし貧しくて生きるのがやっとの状態なら、多くの人は自己実現、自分らしさというものを捨てて、金を選び、生きようとするだろう。

 

仕事の本質は生業である。

豊かな時代だからこそ、今はその本質が隠れているが、

僕たちの本能はそのことを決して忘れはしない。

生業ということは僕らは生きるという真っ当な行為をしているということだ。

だから他人や世間からどんなイメージを持たれていようが、

自分の仕事に誇りをもっていいと思う。

だってあなたは仕事によって精一杯生きているのだから。

僕はこの生業という言葉を知ることによって救われた。

 

僕は生業という言葉を得てから、仕事に対して無心に取り組もうと思った。

生きるということは無心になって淡々とコツコツやることのような気がするからだ。

それが仕事であり、生業であると僕は思う。

 

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あなたはその声に耳を澄ますだけでいい

自分の心に耳を澄ませてごらん
やさしくノックしてごらん
手の甲で軽く「コンコン」と
そしたらドアの向こう側から
小さな手で「トントン」と返事をしてくれるかもしれない

そっとドアに耳を当ててごらん
そしたらドアの向こうから
小さな小さな声で囁いてくれるかもしれない

その声はあなたの本当の想いを発してくれるかもしれない
あなたはその声に耳を澄ますだけでいいんだよ

僕は過去の自分に縛られて、現在の自分を見失っていたんだ

僕は感動を大切にしたいんだ。

 

それがわかっていなかった。
感動の前にこういうやり方でやらなければならない、こうあるべきだと自分を縛り付けていたんだ。

 

美しい風景を見たい

 

僕の求める感動はそこにあったはずだ

だけど、趣味が自転車だから、自転車でいかなければいけない。
体調が多少悪くてもそれが僕である自己承認の手段だった。
だから僕は自転車で行くことにこだわってしまった。

僕は美しい風景による感動を求めていた。

それが一番の目的だったはずだ
それがいつの間にか今までの自分を壊してしまうのが怖くて自転車で行くという手段にこだわってしまった。
結局僕は目的にたどり着けなかった。
手段にとらわれ、目的を果たせなかった。
手段を変えることは自分を否定してしまうように感じた。

でもそれは違う

 

本当の僕は美しい風景に出会い、感動することだったんだ

 

僕は過去の自分に縛られて、現在の自分を見失っていたんだ

 

もう一度自分の気持ちを見つめてみよう

過去の自分に囚われることなく、素っ裸の自分も見つめてみよう

一貫性がなくてもいい

あいつはコロコロ変わっている

誤解されてもいい

自分の一番大切なことを見失わないことが一番大事なことなんだ

『貧しき人びと』を読んで、ドストエフスキーは心根の優しい人ということがわかった。

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ドストエフスキーの『貧しき人びと』を読んだ。

ドストエフスキー

この名前を聞くと真っ先に思い浮かぶのは

文豪

という文字だろう。

あまりにも有名であり

著名人が推薦する本であるがゆえに

これほど庶民が読む本と無縁のような印象がある。

 

しかし『この貧しき人びと』はまさに

庶民を対象にした本であり、彼が切実に庶民に寄り添って

世間を見ていたかがひしひしと伝わってきた。

ドストエフスキー=文豪

という定義から

ドストエフスキー=心底心の根の優しい人

というイメージに変えてくれた本だった。

この本は難しい表現はなく、非常に読みやすい

 

経済至上主義の現代においては、

まず仕事が出来る人、能力がある人

に価値が置かれる。

そうであるなら、

心の優しい、善良で不器用な人々は

どうすれば良いのか。

果たしてこの世に生きる価値はあるのか。

どうやって自分の価値を自負しなければならないのか。

 

このような問いに対して真剣に、

本当に真剣にドストエフスキーはそのような人々に

寄り添って考えていてくれたことがこの本で伝わってきた。

 

 

読んだ後、自分の心の中で様々な化学変化が起きているのが分かる。

まだそれをうまく言葉にできない。

ただ、言えることは

この本を読んだことにより、僕の心は前よりも磨かれ

人として一歩前進んだ実感があるということだ。

こんな体験をさせてくれる本に出合えてよかった。

 

 

 

果たして僕はスマホを見て有意義な時間を過ごしたのだろうか

何もしない時間を過ごす

簡単なようで案外出来ない

何もしない時間を過ごした自分がひどく惨めに感じてしまう

だから僕はつい何かをやろうとしてしまう

ツイッターをみたり

ネットニュースをみたり

音楽を聴いたり

ブログをチェックしたり

要はスマホを手放せない

でも冷静になって振り返ってみる

果たして僕はスマホを見て有意義な時間を過ごしたのだろうか

ほとんどは時間潰しで何も残っていないのが事実だ

むしろ何もしていなくてぼーっとする時間の方が気分がすっきりすることがある

 

この前、新聞の記事で書かれていたが

ぼーっとする時間は脳にとって大切らしい

睡眠の時と同じで思考が整理されるみたいだ

ぼーっとすることで今まで気付かなかった新しい発見もある

この前電車でぼーっとしていたら

「あっ、こんな所にこんなお店があったんだ」

「あっ、そうだ、今度こんなことしてみよう」

などわくわくする自分がいた

これも脳がリラックスしていたからかもしれない

 

あるいはスマホを見るぐらいなら本を読んだ方が全然有意義なことが結構ある

スマホをギャンブル、酒のように依存させて、

あたかも熱中しているような錯覚にさせるけど、

そのあとの疲労感、虚無感が半端ない

対して本はそういうことはない

あくまで主体的であって、その充実感はスマホより断然ある

 

スマホは麻薬みたいなものだと最近つくづく感じる

一旦手に取ってしまうと、中々止められない

しかもスマホに熱中させられてしまうと、その後無気力になってしまい

読書する気力もなくなってしまう

 

スマホとは距離を置こう

スマホをいじるんだったらボーっとしよう

あるいは本を読もう

その方が自分にとって有意義になりそうだ

 

 

 

都内に向かう電車が好きだ

電車に乗って都内にでるのは僕の楽しみでもある

普段は自転車で田舎道を走って通勤している

休日は何かいつもと違う場所に連れて行ってもらいたい

そんな気持ちから僕はあえて人混みの都内に向かいたくなる

地方勤務を経験したからこそわかったこと

普段、自転車通勤しかしないからこそ求めること

どこか非現実な場所に連れて行ってもらう

何かがありそうな予感

電車の中で聞くあの独特な音と、雰囲気

毎日は嫌になるけど、たまの休日に乗ると楽しくなる

埼玉からだんだんと東京に近くなり

高層ビルや派手なネオンをつけた建物をみると

不思議と落ち着き、希望が湧いてくる

人って不思議ですね

都内に向かう電車なんて

現代の病の象徴のようにされるものなのに

こうしてたまの休日に乗ると

まるで船でどこか遠くみたいに連れて行ってくれる乗り物になる