ー自分らしさだけでなく、感動を大切にしたいー
今日もなんとか職場に出勤し、仕事をやってきた。最近こまめにブログを書いているおかげか、自分の思考や感情の整理が出来て、不眠気味が若干解消され、睡眠の質が上がっている。
仕事の前日が哀しみに襲われたり、とにかく仕事が嫌だったり、人生このままで終わらせたくないなど、ここ数日そんなことをつらつら書いている。
自分の今の仕事はインフラ関係で、利潤を求めるというよりは、人々が生きていくに欠かせない社会貢献性が高い事業をしている。それでもなぜか自分は社会に貢献しているという実感をあまりもたない。むしろ社会の歯車となって、代わりのきく部品のような気分になる。自分の存在が埋没しているような感覚だ。こんなことを書くと、自分がそんなに偉いと思ってるのか、自分がそんなに特別なのか、と思われるかもしれない。でも、やっぱり自分の存在が社会の部品であり、埋没している感覚は事実だ。
そんなめんどくさいことを考えるより、適当に働いて、給料もらって、残りの自分の自由な時間を謳歌すればいいじゃないか。世の中の人はみんなそうして働いているんだ。そう思おうとしたこもある。でも僕にとってはそれが苦痛で苦痛で、そんな簡単に割り切ることが出来なかった。
それだったら、いっそ今の仕事を辞めて、自分で会社を興すなりして、働けばいい。そう考えることもある。しかし僕はそんな勇気も技術もない。しかも結局のところ、自分で起業したところで、それも社会という大きな歯車の中の一つには変わらない。起業したところで、会社や個人の取引があり、日々、仕事のことを考えなければならず、根本的なところは解決しない。
自分は何を欲しているのか。
自分の心を問うと、きっと僕は何かを自分で行動するなり、創作なりして感動したいのだと思う。それが仕事においても同様で感動を求めている。
感動することによって自分という存在が肯定されるのだと思う。
僕はきっと人よりそういう気持ちが強い。仕事にもそれを求めてしまう。惰性で仕事をやることができない。でも自分が何をすればその感動を得られながら仕事できるのかわからない。だから悩み苦しんでいるんだと思う。
仕事のやりがい
自分らしさ
この言葉を耳にしてから久しい。
この言葉が生まれる背景は、人々が目標を失いつつある成熟した社会に組み込まれ、自分という存在がそんなに特別なものではないということを感じているからだと思う。だから、仕事のやりがいや、自分らしさというものを得ることによって、自分の存在価値を見出そうとした。
きっと多くの人は僕と同じように、社会の歯車、部品ではなく、何か自分の手ごたえを求めているのだと思う。
「リア充」などの言葉も根本は同じだ。とにかくあなたは特別ということを社会的に承認をされることを人々は望んでいる。あなた他の人より秀でて特別である。さらにそんなあなたを社会でも承認していますよ。特別かつ承認。でも、それも突き詰めると、社会的に承認されるだけであって、社会の部品や歯車であることに変わりない。なぜなら、社会は古いリア充を葬り、次のリア充を作り出し、古いものはなくなり、新しいものに変わっていくからだ。つまり表面的なリア充は社会の承認だけで、特別ではない。真のリア充とは確固たる自分というものがあり、それがたまたま社会に承認されているものだと僕は思う。世間の言うリア充は前者の表面的なリア充を指していることが多いと思う。
自分らしさという言葉だって、結局は人や社会から承認されることによって、自分らしさという言葉が初めて使われる。承認されなかったら、それは単に変わった人、狂人に終わってしまう。
じゃあ僕はどうなんだ。もちろん人や社会から承認されたい欲求はある。でもそれだけじゃダメなんだ。自分らしさというものだけでなく、感動が欲しい。何か自分でやっていて、人や社会から認められる、称賛されるだけじゃなく、心底自分の行為そのものが楽しめて、感動すること。そういうものを求めている。
だから僕はブログを続けられているのかもしれない。自分の好きなように文章を書いて、そこには楽しさと、書いてこそ初めて気づく発見があり感動がある。そしてこれを読む人がいて価値を共有してくれる。
組織や人から強制されるのではなくて、自発的に何かをやるというのは、感動があり、自分の存在を確かめられる行為なんだと、この記事を書いて思った。
ー自分らしさだけでなく、感動を大切にしたいー