仕事の前日の哀しみについて
今日は朝は憂鬱だったが、午後は蔦屋に行って本を買い、ブログを書いているうちに気持ちがニュートラルになってきたと記事に書いた。
しかし、今度は哀しさに襲われて、何とか気分を紛らわそうとまたブログを書いている。
煙草を吸うために家の玄関から出ると、もう夜も更けてきていたが、昼間の熱気がまた残っていて、蝉の鳴き声が遠くからひっそりと鳴いていた。
明日の仕事を思うと、気が重くなり、気を紛らわそうと煙草を吸ったのだが、煙草を吸ったことにより、自分の正直な気持ちが外に出るのか、急に哀しみに襲われた。仕事は嫌なことは嫌だが、よくよく自分の気持ちを観察してみると根っこにあるのは哀しみなのだ。なぜ哀しいのか。それは仕事が嫌と言いつつも仕事に対して明確な不満がないからだ。なんと贅沢なことを言っているのだろうと自分でも思うのだが、不満がないのに仕事が嫌なのは事実であり、自分はそれに対して哀しみを抱いている。そして哀しみとは自分の無力感であると思う。仕事が嫌なら辞めればいい。でも別の仕事をしてもきっと同じような哀しみを経験するだろう。なぜなら今の仕事に不満があれば、その不満をなくす環境を選べばいい。でも不満がないから別の仕事をしたところで、同じことを繰り返すことがわかっている。
究極的に考えれば仕事をしなければいい。そうすれば、少なくとも仕事が嫌という問題は解消できる。でも僕は残念ながら、資産があるわけではないので、それもできない。
自分の無力感が哀しいのだ。そして仕事の前日はいつもその無力感の哀しみに襲われる。
でも今こうして書いているうちに、僕は新たな自分の正直な気持ちを発見する。仕事に不満はないと言っていたけど、それは嘘だ。本当は組織の中で仕事をしたくないんだ。組織に頼ることなく、自分の力で仕事を見つけ、自分の力でお金を稼げるようになりたい。本当はそう思っているんだ。でもそれをやる勇気もなく、出来る気もしないから哀しいんだ。だから仕事の前日は否応なしに哀しくなるんだ。
ー仕事の哀しみは自分の無力感の哀しみ、そして人生の哀しみー