キラキラ女子、リア充、断捨離、ニート これらは全て心の豊かさを模索している日本人の姿だ
日本は太平洋戦争で敗戦し、アメリカ軍に占領された。
しかし、日本はその後世界的に例がないほどの経済成長を成し遂げることが出来た。
敗戦直後はとにかく物がなかった。
生きていくことが困難だった。
だから日本はまず経済的に豊かになる必要があった。
経済的に豊かになれば、心も豊かになれると日本国民は思った。
ここが落とし穴だったんだと思う。
そして2016年になった今現在もこの考えに囚われている。
だからこそ経済最優先の安倍首相率いるアベノミクスが支持されているだと思う。
しかし、経済だけでは心は豊かになれないというのも現代の若者は気づいていると思う。
ワークライフバランス、キラキラ女子、リア充、断捨離、ニート
これらに共通することは経済、つまり金や物だけでなく、精神的な豊かさを求めている若者の意識が具現化した言葉だと僕は解釈する。
しかし、これらの言葉に該当する若者も心底満たされているのかは疑問だ。
精神的な豊かさを模索している時期なのかもしれない。
僕らはまさに脱経済的豊かさを実現するための実験的世代だと思う。
価値観が多様化する中、いったい何が豊かなのかは一概に表せない。
ただ、気になるのは脱経済的豊かさを求めていても、やはり人からどう見られるか、どう評価されるのは大事な指標でもあることをテレビや雑誌の情報からでもわかる。
キラキラ女子、リア充などがもてはやされるのはその象徴だ。
彼らは見た目や行動から人から注目されやすいく、評価されやすい。
断っておくが、別に僕は彼らを批判するわけではない。ただ、評価されやすいのは見た目や積極的な行動派である彼らであると感じているだけだ。
学校のクラスで人気者は容姿が整って、勉強や運動もできる人が評価されやすいのと似てるかもしれない。
しかし、人にはそれぞれの考えや価値観がある。社交的に外でアクティブに過ごすのが好きな人もいれば、一人で読書や音楽鑑賞などの趣味に過ごすのが好きな人もいる。
大事なことは人の評価ではなく、いかに自分の考えや価値観を深めていくことではないか。
それが脱経済的豊かさを身につける方法であると僕は思う。
しかし、人間は人の評価なしでは生きていけない。必ず人から自分の存在を認めてくれたり、評価してくれる存在が必要とされる。
自分の考えや価値観を深めていくと必ず孤独が付いてくる。一人一人の顔や体が違うように、思考や価値観は一人一人異なるので、突き詰めると自分はみんなとは一緒ではないという結論に達する。
それが自由というものだと思う。
でも、自分の考えや価値観を持っていてもゆるいつながりを持つことは可能だ。
例えば、読書が好きなら読書サークルに参加するのもいい。
読書は人それぞれ好みは異なるが、本を読むことを楽しむという共通の価値観がある。そのことを互いに認め合えばつながり合えることが出来る。
そうすることによって、お互いが評価しあい、認め合い、自分の存在を肯定できる。
ネットが普及した現代ではそういう意味ではコミュニティが作りやすい環境であり、恵まれている環境でもある。
こうやって考えてみると、
脱経済的豊かさの実現というのは、経済的豊かさよりも相当難しいと思う。
経済的豊かさは簡単に言ってしまえばお金を得て物を買うことに尽きる。
そうすることによって人からの評価も得られ、自己肯定もできた。
団塊の世代はマイホーム、マイカーがいわゆるステータスだった。
しかし、脱経済的豊かさは人それぞれだ。何が心の豊かは人それぞれ異なるので、明確な指標がない。
日本に確固とした宗教が存在していたなら、その宗教の指針に沿った行き方が一つの指標となっていただろうが。
宗教は脱経済的豊かさを求めるツールとしては一番システマチックかつコミュニティによる自分の存在意義も見出せるので、効率を好む現代人にはこれからは宗教が流行るかもしれない。
キラキラ女子、リア充は一つの指標であるかもしれないが、みんなが当てはまるとは限らない。
少なくとも僕はリア充になりたくない。
働く必要がないなら働かない。
のんびり過ごせるならのんびりごしたい。
この一か月半仕事しないで、のらりくらり過ごしたけど、自分はそういう暮らしが好きだとつくづく実感した。
脱経済的豊かさとは生きがいとも言い換えることができる。
この生きがいとはいったい何なのか
このような哲学的な問いがこれからの時代には求められると僕は思う。
そして、経済的豊かさ=生きがいではないことはもう現代の日本では証明されたと僕は思う。
生きがいを知る手がかりとして、僕は過去の日本人が何を大切にしていたかを知ることにあると考えている。
僕たちは遠い祖先を辿ると、やはり日本人だ。日本人である遺伝子を受け継いでいる。
西洋の思考、宗教、習慣をいつまでも真似してはダメだ。
西洋は一神教だからと言って、日本は一神教になることは出来ない。
凄い人を見て日本人は「あいつは神だ」とか言うことはまさに良い例だと思う。
これは多神教の習慣から 出たものではないか。
西洋は西洋の価値観がり、日本人は日本人の価値観がある。生きがいを感じるには西洋の価値観ばかりを取り入れればいいわけではない。
すでに夏目漱石、川端康成、岡本太郎などはそのことに気づいていた。
僕は彼らの著作を手掛かりにして少しずつではあるけど、自分の感じる生きがいに近づいていってる実感がある。
これからも色々悩むだろうけど、悩みぬいて自分の生きがいを深く掘り続けていきたいと思う。