人生の充実とは人の価値観からではなく、自分の価値観から生まれていく
人によって大切な時間は様々だと思う。
ある人は好きな人と一緒にいる時間
ある人は趣味に没頭する時間
またある人は仕事や資格に取り組む時間
大切な時間というのは人それぞれ異なり、十人十色だ。
ただ一つ言えることは生きていく上で、自分の心身の状態を健全に保っていく為には
自分の大切な時間とは何かを知り、それを実行することだと思う。
僕にとって大切な時間の一つとして、景色を見てぼーっとしたり、小説をだらだら読んだり、音楽を聴いたりして、心を自由に散歩、逍遥させることが挙げられる。
一時期はこの大切な時間が全く生産性がないような気がして、仕事や資格やらの勉強に充てていた時期もあった。
しかしそれは僕にとっては大きな間違いだった。それを今改めて実感している。
「自分磨き」という言葉を聞くようになってから久しいが、多分僕もその言葉に無意識に影響されていたんだと思う。
ぼーっと景色を眺めたり、本を読んだり、音楽を聴く時間があるなら、もっと自分を目に見える形で向上、成長させないといけない。そうしないと限りある人生を充実させることが出来ないんじゃないか。そんな焦り、強迫観念とも言い換えられる思考にとらわれ、すっかり怯えていたんだと思う。
その思考、感情が起きる理由は、きっと何かハッキリと目に見える形で自分を向上、成長させることで他人から評価されたい気持ちもあったんだと思う。
しかし自分にとって本当に大切な時間を削ってしまうことで、僕の魂とも呼べるもの、もっとわかりやすく言えば、生きる力も削られてしまった。常に心の余裕がなく焦燥感に駆られていた。
そこに人生の充実とも呼べるべきものはなかった。
昨日たまたま読んでいた夏目漱石の「草枕」に面白い文があったので引用してみる。
五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁を勘定して、それが人世だと思っている。
そうして人の前へ出てきて、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬことを教える。
―中略ー
分かったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。
只ひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。
人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。
邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのを以て、こっちの方針とするばかりだ。
人生の充実とは世間、他人の価値観をよりどころとするのではなく、自分の価値観をよりどころとし、それを実行することだと最近になってわかった。
別に人の評価はいらない
自分がやりたいからやる
それだけでいいんだと思う。
だから僕はこれからも自分の大切な時間と共に人生を過ごしていく