読書メモー『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』村上春樹ー
彼はあまりインタビューを受けないことで有名だが、これは彼の貴重なインタビューを
まとめた貴重な本だ。
彼が目指す小説のスタイルとは
なぜ彼は走るのか
彼にとって小説を書くことは何を意味するのか
小説とは違い、村上春樹自身のことを語っているので、村上春樹の小説が好きな人は十分に楽しめる内容だ。
彼の作品を知らなくても、小説が好きな人なら、小説家とはこういうことを考えながら書いているものなのかと参考になるかもしれない。
村上春樹にとって小説を書くことは、深い井戸に入っていくことに例えている。まだ言葉になる前の深い世界に入り込み、そこで様々なことを感じる。そしてそれを言葉にしていくこと、物語にしていくことが、彼の小説となる。
僕が彼の小説に引き込まれるのは、そういう言葉になる以前のものの世界を彼によって言葉で表現してくれ、その世界に連れて行ってくれるからだろう。
苦しみながらも、世間に流されず自分の頭で考える。
昨日は気になっていた桶川の賃貸一戸建ての物件を内見した。駅からは遠いけど、日当たりは良くて、築年数の割に綺麗だった。でも妻の趣味のピアノが置けないとのことだったので断念。もうしばらく今の家に住みそうです。
今日は体調が悪かったので、ソファーで横になって1日を終えた。本を読む気力さえもなく、ひたすらゴロゴロして虚無の日を過ごした。
仕事やプラベートも含めて自分はどんな生活が合っているのだろう。とりあえずわかっていることは、サラリーマンの生活は自分にとって中々しんどいということだ。
世の中こういうものさ、大人ってこんなもんさ
そういうなんとなくある世間の空気に流されたくないという反骨心が自分にはあって、それが自分をしんどくさせている気もする。
でもやっぱりそこは反骨心を持ち続けたいんだよね。生きるって言うのは色々悩み、自分の頭で考えながら行動していくことだと思う。結局自分の望んでいることは流されて楽になるより、苦しみながらでも、自分なりに生きる道を模索することなんだと思う。
僕の想像する住みたい武蔵野の風景
最近は割と精神状態が落ち着いてきている。
薬が効いてるのかもしれない。
まだどこかに遠出したり、運動する元気はないけど、本を読んだり、散歩したりしながらボチボチ過ごしてる。
何もしたくないときはボーッとしたり、スマホで賃貸物件を見て、次引っ越すとしたらどこがいいだろうと想像をして楽しんでいる。
今の家は一年半前に住み始めたばかりなんだけど、家賃が高いし、場所的にどーもしっくりこなくて、良い物件があったら引っ越したいと思っている。
もしかしたら自分は同じ場所に定住できない人間なのかもしれない。
家を買っちゃうと、もうそこから動けなくなって、未来が決められちゃう見たいで、息が詰まるような気がしてしまう。
住んでみて、初めてその地域と自分の相性がわかったりする。でももし家を買っちゃうと相性が悪くても住み続けなければいけない。それが自分には多分耐えられない。
埼玉に戻ってきて五年目だけど、僕は埼玉の中でも秩父連山が見える荒川沿いが好きなことがわかった。埼玉の利根川の東部や、江戸川沿いの平野部は本当に田畑だけの景色で、何か物足りなさを感じてしまう。埼玉県と一言でいっても、地域によって都市の規模や風景が全然異なる。
自転車や車を走らせて僕が景色に魅入られる時は、いつも決まって広大な田畑を背に秩父連山と富士山の姿がそこにはあった。
昔の埼玉や東京は武蔵野という地域だったが、僕にとって武蔵野というと、こういう風景を想像する。
今の自分は武蔵野に住んで、山々に囲まれながら、田畑の中や荒川沿いをのんびり散歩したり自転車をこぐ生活を望んでいる。
普通に生活するのが自分にとっては中々難しい
今日はまたどこか山でも見に行こうと思ったけど、体調がいまいちで、車を運転する気力もなかったので、結局行かなかった。
かと言ってずっと家に引きこもってるのも気が塞ぐので、散歩がてら図書館に行って本を借りたり、ドトールに行ってブログを書いたりなど、まぁ休日らしいと言っちゃ休日らしい過ごし方をした。
自分のこの浮き沈みのある体調との向き合い方が難しいと感じる。日によって体調がマチマチだから休日の予定もたてられない。
なんていうか普通に生活するのが自分にとっては中々難しいことなんだとこの歳で感じるようになった。
これはもう体質の問題であって、気力とか精神論じゃない気がする。
じゃあ今後自分はどんな生活を送ればいいかと自問自答してもわからないから困る。
う~ん、どうすればいいものか。
読書メモー養老孟司『こまった人』ー 自分らしさについて考えてみる
養老孟司さんの本をまた図書館で借りたが、一気読みして内容はあまり覚えてない。
自分らしさ、個性を尊重という風潮はどこからきたのか。
キリスト教では霊魂は不滅である。つまり、確固たる個人というのものが存在することが前提である。
そこから近代の個人の考えが生まれた。
そんなことが書かれていた。
つまり、個人という考えはそもそも輸入思想なのだ。
明治維新と戦後に西洋思想が取り入れられたわけだから、考えてみると個人という考え方の歴史は浅い。そもそも日本人に合っているのかもよくわからない。
ただ、僕らの世代(僕は現在34歳)になってなぜ個性だの自分らしさだのと言われるようになったのか。
それは日本人の目標が見失われたからだと思う。高度経済成長の時は個性だの考えなくても良かった時代だった。なぜなら彼からは戦後復興という大きな目標があったからだ。そして確かに自分たちの仕事が確実に日本を豊かにしているという実感を感じていた。
でも僕らの時代は違った。ある程度物質的に満たされてしまい、戦後復興の目標は達成され次なる目標を見失ってしまった。しかも日本は長期にわたる不景気を経験し、リストラ、就職氷河期を経験した。
目標を失い、不景気を経験し、リストラされる。これは一人一人の生きる目標を失ってしまったことを意味するんじゃないか。
何のために働くのか。そういう大前提なる目標が失われてしまった。そして物質的に満たされても、心は満たされていない
こういう状況が個人の存在価値の危機を生んだので、個性とか自分らしさとか言われるようになったんだと思う。
読書メモー養老孟司『まともな人』ー
養老孟司さんの語り口調が好きで、彼の著作を目にするとつい手に取ってしまう。
ただ内容はもうほとんど覚えていない。たしかこの本は2週間ぐらい前に図書館で借りた。
ほとんど内容を忘れたが、その中でも記憶に残っているところは、養老さんが意識と無意識の関係を述べていて、現代社会は意識中心の社会に問題があると言っている。
人の意識とは物事を秩序立てて考えることである。でも人は必ずしも24時間意識に集中できない。かならず睡眠の時間を通して、無意識の時を過ごす。
つまり、意識と無意識はどちらにも偏ることができない。それなのに今の時代は何事も全て意識中心で秩序立てた世の中を作ろうとしているから、おかしなことになる。意識中心ということは、どこかでかならず無意識つまり無秩序なところを生み出していると、養老さんは指摘している。
意識によって秩序立てられた都市空間の裏では、大量のごみ処理やエネルギー消費などの無秩序はその例である。
僕の中で意識中心だと感じる最近のキーワードは
健康管理、ライフプラン、自分磨き、都市空間、アンチエイジング
などだ。
これらは全て意識的なものだ。だけど、僕らは無意識の世界にも生きている。そのせいか、この意識中心で秩序立てられてた社会に息苦しさを感じるのは、やはり僕らは意識と無意識、つまり秩序と無秩序の間を行き来している存在に他ならないからだろう。