仕事で疲れて、休日は家でゆっくり過ごすあなたもリア充です
リア充というと仕事をバリバリこなして、休日もアクティブに屋外、家にいたとしても仕事や資格の勉強などをして過ごす
そんなイメージがあるかもしれない
しかし、僕から言わせてみれば
休日を家でゆっくり、ダラダラ過ごすこともリア充だ
と言いたい
実用日本語表現辞典では
「現実の生活が充実している人」を指す俗語。交友関係、男女関係、生活環境などが満たされている様子などを意味する表現。 『実用日本語表現辞典』
IT用語辞典バイナリでは
リア充は「リアル(現実世界)が充実している」の略とされる。掲示板などでは活発に活動しているが、現実の生活では引きこもりがちだったりニート生活を送っていたり、満たされない生活を送っているユーザーが、自嘲の意味を込めて用いる場合や、インターネットに詳しくないユーザーを揶揄する意味などを込めて用いる場合など、様々なニュアンスをこめて用いられる。 『IT用語辞典バイナリ』
などと説明されている。
なるほど、つまり引きこもったり、独りぼっちでない生活で、現実に誰かしらとつながりが ある生活のことを言うらしい。
もっとざっくりまとめてしまえば、仮想ではなく、現実の視界に見える形で交友関係や男女関係があったり、行動していることを指すのだろう。
しかし、僕から言わしてもらえば交友関係や男女関係、行動(ここでの行動の意味は趣味や仕事を指す)が持てれば本当に心の底から満たされるとは限らない。
たしかに友人が多い人や、趣味や仕事に没頭している人ははた目から見るとキラキラしているのは事実だ。
しかし、その人(いわゆるリア充)が本当に心の底からキラキラしているとは限らないと思う。
キラキラしている人の共通の特徴として挙げられるなぁと感じるのは、自分のやっていることをよくしゃべることにある。
そして自分の正当性を強く伝えてくることだ。
なぜ自分のことをよくしゃべり、正当性を強く伝えようとするのか?
それは自分のやっていることを他人から「あなたはすごいね」と認められたいからではないか。
なぜ認められたいのか?
それは自分のやっていることに自信がないからであると思う。
自信がないからこそ他人から「あなたはすごい」と認めてもらいたい
本人が望んでリア充になりたいのではなく、他人から認められたいからリア充になる。
そういう人が案外多いのではないか。
だからリア充は休日は家でゴロゴロしたり読書などするよりも、外で友人や恋人と過ごす方を選ぶ。そちらの方が他人に堂々と休日の過ごし方を言え、評価されるからだ。
しかし、他人から評価されたからといって心が満たされるとは限らない。
僕は思う
満たされたら必要以上にしゃべらないし、正当性を伝える必要もない。
現に今の僕自身がこのブログを通じてよくしゃべり、自分の考えの正当性を伝えようとしているところに、自分の存在の虚しさを感じているという矛盾を抱えているからだ。
心を満たすにはリア充の生活だけではない
本人が望んで休日をダラダラ過ごし、心が満たされているのならそれこそ本当のリア充だと僕は思う。
目に見える形で他人から評価されることは虚しさを伴う
もっと自分の心の声に耳を澄まし、世間や他人から決められた日々の過ごし方ではなく、自分の過ごし方を探した方がいいのではないかと僕は思う。
功利的、目的的ではなく、自分の心の声に従って無目的に何かを表現したり、行動することが本当に満たされるのではないか。
最後に話は少し逸れるかもしれないが、「遊び」の定義について岡本太郎の言葉から引用して締めくくりたいと思う
西洋人が「遊び」について語る場合は、何か「する」ことを前提としているつまり「プレイ」である。
ー中略ー
われわれ日本人の「遊び」には、勿論そういう意味の遊戯も含まれているが、それはあくまでも一部であるにすぎない。もっと無限定な意味合いがある。
何もしないことも遊びなのである。「今、会社をやめて遊んでいるんだよ」などと言う。ー以下省略 岡本太郎『対極と爆発』
岡本太郎は今からちょうど20年前に亡くなった。つまりこの文章は今から20年以上
前になるから違和感も持つ人もいるだろう
「今、会社をやめて遊んでいるんだよ」
現代人はこういう状況を要はニートでしょ
そういう風に片づけるはずだ
今は会社を辞めてふらふらしていることを「遊び」ではなく、「ニート」と言ってしまう。
こういうところに現代の日本人の思考が西洋化しているんだと思った。
日本人の「遊び」が「プレイ」に限定されてしまった
リア充という言葉もこういう背景のもとに生まれたんだろう