ぽろっぽの日記

-心に舞う蛍を追いかけて-

「生きがい」を感じるには、人の意見や評価ではなく、結局は自分の感覚を信じるしかない

「生きがい」というとずいぶん重い言葉のように感じるが、もっと日常的な表現ならば、何をしてる時に楽しいか、幸せか、満たされているか、になるだろうか。

 

こうすれば幸せになる、こうすれば楽しくなる、という本は世にあふれるほど出ているが、果たしてどれが本当に正しいのかと考えるときがあった。

 

幸せについて究極的に問い詰めたものが宗教であるわけだが、個人的には宗教も果たしてどこまで効果があるか疑問だ。

 

結局のところ宗教はその掟に従って生きることを意味し、個人の思考、行動が限定されることになる。極端に表現すれば思考、行動を柵の中に閉じ込めらるようなものだ。果たしてそれが本当に幸せに結びつくのか。

 

そもそも僕は「幸せ」=「生きがい」とも思っていないのだが・・・・。

「幸せ」とは結局のところ不幸についてなるべく感じないようにしたり、目を向けないようにすることだと思う。つまりある感覚を麻痺させなければならない。感覚を麻痺させるということは生命力が失われることを意味する。

果たして「幸せ」は本当にいいことなのだろうか。僕はそれよりも幸せ、不幸も感じることが出来る「生きがい」の方が大事なんじゃないかと最近は感じる。

 

話はだいぶそれてしまったが、結局のところ、「生きがい」にしろ、「幸せ」にしろ、大事なことは自分の感覚を研ぎ澄ませることではないだろうか。

 

分かりやすい例で言うなら食べ物だ。人はそれぞれ好みが違う。ある人はトマトが好きで、ある人はトマトが嫌いである。食べ物の好みが人それぞれ異なるなら、思考も当然異なる。それは僕たちが色んな人たちと関われば自明の理だ。

 

当然、「生きがい」、「幸せ」も人それぞれ異なるはずだ。それを無理に画一化するところにそもそも無理がある。こういうことを考えてから、僕は幸せハウツー本?みたいな本は一切読まなくなった。 

 

ハウツー本はこんな食べ物はおいしいですよと紹介するようなもので、実際に食べ物を口にするわけではない。

それよりも小説を読んだり、旅したり、色んな人と話したりしていた方が、もっと生の体験が出来る。直接食べ物を自分の口で食べ、美味しいか、まずいかを判断しなければならない。自分の感性をフル稼働させることにより、自分が何を生きがいに感じているかがわかる。

 

結局のところ、「生きがい」「幸せ」は自分で体験して、感じるしかない。

 

人の意見や評価は参考になりはするが、絶対ではない。

 

しかし、それでもどうしても人の意見や評価が気になる自分もいるのも確かだ。

 

なぜなら自分の感性だけだと基準というものがないからだ。

 

人の評価や意見があることで基準ができ、自分の立ち位置がわかり安心する。

 

例えば、自分一人だけがこの音楽は「素晴らしい!」と思っても、みんなは「全然そう思わない」と言ったら不安になる。

 

自分の感覚はきっとおかしいんだ。自分の感覚を疑い始め、やがて周囲から孤立しないように感覚を殺し始める。

 

そして、周囲から孤立しないために、自分の感性より先に、人の意見や評価をまずは参考にし始める。

 

しかし、そうすることによって、だんだんと自分の「生きがい」遠くなるんだと思う。

 

ネットが普及したことによって、ますます人の意見や評価の情報が入る世の中になってきた分、自分の感覚を置き去りにして「生きがい」が遠くなると僕は思う。

 

僕は「生きがい」を大切にするために、これからはもっと自分の感性を磨き、信じれるようにしたい。