自分の行動をよく観察して、何事も自分のやっていることに向き合うことが必要だと思っている。
仕事へ行く前に備忘録として記録しておく
僕は先の予定の事や、嫌なことなどをくよくよ考えてしまうタイプだ。
考えるというよりはグルグル同じ事柄をひたすら回しているだけで、実は何も考えていないと言った方が正しい。
考えるというよりは悩んでいる。
自分なりに悩まないように気を付けているつもりではあるんだけど、いつの間にかまた悩んでいる自分がいる。
悩むことが癖になっている。
しかも悩んでいる時は、案外何かをしながら悩むことが多い。
例えば歯を磨きながら、洗濯物を畳みながら、髪を洗いながら
これら何かをしながら悩んでいるということは、裏を返すと、今自分のやっていることに向き合っていないことだと感じている。
きちんと歯を磨くことに集中するとか、洗濯物を畳むことをするとか、自分の今やっていることに対してしっかりと向き合えば、恐らく悩むことが少なくなると思う。
今一度、自分の行動をよく観察して、何事も自分のやっていることに向き合うことが必要だと思っている。
虚無感について
虚無感といったものはどこからやってくるのだろうか。僕はたまに虚無感に囚われてしまうことがある。一旦とらわれてしまうと何もやる気が起きなくなってしまう。何かのスイッチを切られてしまったかのうように。
そもそも僕はいつから虚無感を感じるようになったかを思い出してみた。恐らく、大学受験が終わった後だろう。当時、自分ではこれ以上ないぐらい勉強したにもかかわらず、第一志望が不合格だった。努力が実らなかったときの虚しさ。あの時以来、僕は度々、虚無感に襲われるようになった。
ある人は虚無感とは自己肯定をする一つの手段ということだ。虚無を感じることによって、自分と言う存在が特別ということを暗に感じさせるらしい。たしかにそうかもしれない。何をやっても虚しいということは何かを求めている裏返しとも言える。何かを求めているけど何も出来ない自分がいるから、虚無を感じて自分のプライドを保とうとする。
虚無を克服するには求めるという行為を完全になくすか(俗にいう出家か)、あるいは求め続けて、何かを得られるまで、必死になってもがき続けるしかない気がする。
ー西湖の夜ー
虚無感を受け入れつつ、克服したい
太宰治の『トカトントン』はこういう心境のことを指しているのだろうか
不条理とは寛容さであり、心を豊かにしてくれるもの
最近、不条理と言う言葉がよく頭に浮かぶ。自分ではどうしようもできない運命に翻弄されるようなことだ。自分の周囲を見渡すと切に感じる。自分の努力ではどうにもならない。ただただ、運や環境に左右され、自分の人生が決定されていく。
僕は厭世主義者ではないし、努力を否定するつもりもない。でもやっぱり運命によってどうにもならないことはあると思う。病気になりやすい人、そうではない人、頭の良い人、そうではない人、陽気な人、根暗な人、家庭環境の良い人、悪い人
個性という言葉を使うと響きがいいけど、学校や会社などの集団生活における競争社会に入ると、その個性というものが自分に辛く当たってくる時がある。
僕はこの不条理というものが受け入れることが出来ないかったから努力というものでなんとか補おうとしていた。もちろん僕なんかより何倍、何百倍も努力している人がいることも知っている。でも僕なりに必死でやってきたことも事実だ。それでもどうしようもなくダメな時がある。努力ではどうにもならないことがあることをたくさん経験した。
だから僕は不条理と言うものを受け入れることにした。不条理と言うものが世の中の真理の一部なのだと認識するようにした。努力を否定するとかそんな単純に物事を割り切るのではなくて、ただ不条理という事実を受け入れることにした。『方丈記』に書かれているように。
不条理を受け入れるという事は自分自身も受け入れるということでもある。自分という不条理な部分を受けとめることでもある。人生を受けとめるという事でもある。不思議とそうすることで優しくなれるし、哀しみを感じれるようになった気がする。
不条理とは寛容さであり、心を豊かにしてくれるものだと今は思うようになってきている。
ー星峠からの朝もやー
写真とポエムを綴っていた理由
久々に今の心境をブログっぽく綴ろうと思う。ここんところ、写真とポエムっぽい記事を投稿していたが、今の自分の気持ち、思考を冷静に見つめて文字に起こすには、そのやり方だと無理だと感じたからだ。
自分の気持ちが整理したくてもできない時がある。そんなとき人は泣いたり、叫んだり、身体を動かすなどして、気持ちを落ち着けようとする。そして落ち着いてから今までの自分の気持ちや思考を冷静に振り返るために、考えたり、人に話したり、文章にしたりする。
最近の記事でポエムが多かったのは、気持ちの整理ができていなく、とにかく何かを出したかったのかもしれない。ただ叫びたかったんだと思う。でも何を叫びたいか自分でもよくわからない。ぽっと頭に浮かんだものとにかく文字にして叫びたかった。
きっと焦っているんだともう。もう30歳を越え、世間的に見ればもう十分な立派な大人だ。でも僕自身はこれから何を目指したいのかハッキリしていないし、かといって何も考えずに生きていくつもりもない。そうした自分に焦っているから、このブログを通して少しでも自分の気持ちを表現したい、何かを形にしたいと思い、写真とポエムを綴っていたんだと思う。
でもそろそろ冷静に自分の気持ちを振り返ることが必要なんじゃないか。ただがむしゃらに行動してるだけじゃダメな時もある。今自分の置かれている状況、心境に対して、ぐっと正面から見据えることも必要なんじゃないか。そうすることによって何かが見えてくるかもしれない。
秩父からの夕焼け
ー僕にとって夕焼けはあらゆる静寂を与えてくれる貴重な時間だー
ただ感じるだけでいい
疲れると海がみたくなる
波の音が聞きたくなる
遠くを見て
耳を澄ませたくなる
何も考えることなく
ただただその場にいて感じているだけでいい
ありのままに伝える写真を撮りたい
自分の目で見た風景を
脚色せずに
ありのままに伝える写真を撮りたい