悪い夢を見ることも必要な夢ー無秩序の時間を大切にするー
頭の中が無秩序になる時間が大切なのではないか。
最近よくそのことについて考える。
秩序の反対の言葉は無秩序
よく自由の反対は秩序とも聞くような気がするが、まぁ言葉の議論は哲学者にまかせておいて、ここでは秩序の反対の意味は無秩序ということを定義して話を進めたいと思う。
なぜ頭の中が無秩序になる時間が大切なのか。
僕なりに考えてみたこと、感じたことをここで記そうと思う。
以前の記事でも何度か書いているが、僕は頭痛に悩まされることが多々ある。
頭痛にも人それぞれ症状や原因が違うが、僕の場合明らかにストレスによるものだ。
頭痛薬はあまり効き目がない。
頭が重くなり、全身がだるくなって、何をやるにも億劫になる。
精神的なものと関連しているのか、気が滅入ってるときは特にひどい。
薬の効果が期待できない中、僕はどうやって対処してるかというと、
布団の横になったり、散歩したり、整理したり、シャワーを浴びるなどして、出来る限り、頭を無秩序の状態に持っていくようにしている。
ここで無秩序という言葉が出てくる。
つまり、普段の頭の状態は秩序的になっていて、生活しているが、それをあえて意識的に無秩序にシフトしていく行為をしている。
意識的に無秩序にシフトというと矛盾を孕む文章になってしまうが、これが僕における数少ない表現の中で一番適当なものなので、許してもらいたい。
僕らは普段の生活において頭の中で、過去や未来のことを考えて、その時に最適方法を選択して、行動していると思う。
たとえば、平日の朝起床すると、今日の仕事の内容や、通勤時の服装、天気のことを考える。そして今日の一日の予定を考える。
仕事に向かえば、それこそ選択と行動の連続だ。
組織にとって、周囲にとって何が最善であるかをひたすら考え行動する。
そこには理路整然と構築された回路図をつたって、秩序的に物事を進められることが求められ、正義となる。
人間生きていくにはこの頭の中の秩序を保つことが必要だ。
特に高度に文明が発達した現代はそれが求められている事実は異論はないと思う。
秩序があってこそ文明がここまで発達したと言ってもいいだろう。
でも僕は思う。
この秩序によって僕たちの生活は豊かになっているが、僕たちの精神は貧しくなっているのではないかと。
常に頭の中を秩序で保とうとするからこそ、頭に負担がかかり、寝込んでしまう。
人間昔から秩序的に生きていたわけではない。
むしろ秩序と無秩序の行き来しながら生きていた。
そう思うようになってきた。
宗教における儀式、祭り、雑多な街、分煙のない喫茶店
昔はもっと無秩序の場所が多かったと思う。
自然、人の頭の中も今よりも無秩序が多かったに違いない。
今は全てが秩序的に整備され、頭の中も秩序的だ。
受験、進学、大手企業への就職
企業では業績を上げるため、コストのかかる無駄なことはやらず、とにかく経営実績を作り上げる。
これも頭の中で描いた秩序を忠実に実行する行為だ。
あまりにも僕らの生活は秩序に支配されている。
だから今、必要とされているのは無秩序ではないのか。
無秩序といっても、悪い無秩序ではなく、もっと柔らかい無秩序だ。
無意識にやって、自然と頭がリラックスする。
僕は身体を動かしている時、リラックスしている時、寝ている時は、頭を恣意的に働かせている自覚はない。
おそらく、その時は頭は恣意的な操作から解放され、頭が好き勝手に行動しているのだろう。
つまりそれが無秩序だ。
だから身体を動かす、リラックスする、寝るなどの行為を意志的にすることによって、頭を無秩序にできる。
僕はそれを意識するようになってからだいぶ頭痛が緩和されるようになった。
そもそも人間の一日の睡眠時間は7時間必要言われる。
寝ている間は無秩序の時間だ。
しかも、残りの21時間、ずっとフルに活動しているかというとそうでもない。
トイレ、ご飯、風呂、家事、移動など、こまごましたことが色々ある。
このこまごましたことは無秩序の時間に入れると、
結局のところ1日の半分は無秩序の時間だ。
つまり、エネルギー保存の法則じゃないけれど、秩序的に活動したら、必ず無秩序の時間が半分必要になる。
だから現代人はあまりにも秩序的な時間に支配されすぎて、おかしなことになっている気がする。
無秩序の時間は頭の負担を緩和される時間でもあると思う。
変な話かもしれないが、昨日は夜勤の出勤前に家で仮眠をとっていた。
その時、自分は嫌な夢をみていた。
しかし、起きてみると身体は案外スッキリしていた。
もちろん気持ち的には嫌な夢のあとなので決して気持ちいいものではない。
でもその時感じたのは、頭が無秩序になっているからこそ、こうして嫌な夢を見ることがあるわけで、それは少しでも身体の負担を軽くしようとしているということだった。
嫌な夢も実は必要な行為ということではないか。
そんな気がした。
むしろ嫌な夢は身体の負担を和らげ、今の自分の心身の状態を伝えてくれる大事なサインだと受け止めればいい。
無秩序の時間
無秩序であるが故に普段意識されないが、実は僕らが生きる上で大切な時間だという気がしてならない。
身近なことから身体を動かして頭痛や脱力感を解消してみる
ここんところ体調が悪かったが、昨日あたりからようやく回復に向かってきた。
体調が悪いと一言で表しても色々な症状がある。
僕の場合、よくあるのは頭痛、脱力感、腹痛だ。
今回は特に頭痛がひどかった。
体調が悪くなるにはそれなりの理由がある。
起こるべき理由や原因と言ってもいい。
今回の理由はハッキリしている。
仕事によるストレスだ。
8月は来年度の予算を組まなければいけないので、どうしても仕事が立て込む。
自分は割とじっくりと仕事をするタイプなので、どうしてもこういう忙しい時期に入ると、無理をしなければいけなくなる。
仕事をしている時は自覚はないが、自分の想像以上に身体には負担がかかっているみたいで、気づいたらかなりの頭痛に悩まされるようになった。
頭痛薬を飲めばいいかと思うかもしれないが、どうも自分は頭痛薬が効かない。
だからそういう時は結構しんどい。
本を読みたくても読めないし、運動したくてもできない。
自分のしたいことが何もできなくなるのが辛い。
かといって何もしないで布団の中にいるのも辛い。
この頭痛が長年の悩みの種となっている。
最近はこの頭痛に対して行っていることは、
とにかく小さなことでもいいから身体を動かす機会を作ることだ。
運動もできるほど元気ではない。
でもじっとしていも頭痛は治らない。
それだったら近所の買い物や、散歩、整理整頓、掃除などいわゆる家事で身体を動かせばいい。
軽く身体を動かすと少し頭がスッキリするのがハッキリと実感する。
シャワーなども効果的だ。
結局のところ、僕の頭痛の原因は脳の過負荷が原因だと思う。
いわゆる緊張性の頭痛といったところか。
僕は頭の中でぐるぐる考えてしまう癖がある。
仕事が忙しくなると、ますます考えこんでしまう。
そして頭がパンクしてひどい頭痛になる。
多くの人は趣味やスポーツなどで気分転換を図り、バランスを取っていると思う。
だけど、僕にはそれができない。
仕事でクタクタになって何もできなくなる。
もっと正確な表現をするなら
仕事でクタクタになりすぎて、趣味やスポーツの体力、気力が残ってない。
だからそうなったときは無理して趣味やスポーツをやるのではなくて、出来る範囲で身体を動かすきっかけをつくる。
身体を使うと自然と考えることをしなくなるので、頭が少しスッキリする。
身体を動かさずに考えるのをやめるには座禅や瞑想もいいかもしれないが、ちょっと自分には敷居が高い。
手軽な頭痛解消として散歩、家事など手軽かつ身近なことから身体を動かす。
それが自分には合っていると感じだ。
昨日はそれをやってみてだいぶ回復した。
みなさんもよかったらお試しあれ。
僕にとってのブログの目的をもう一度考えてみた
今更ながらブログの目的について考えてみた。
当初のブログの目的は自分の思考をアウトプットすることだった。
僕は頭の中でグルグル考えて何も解決しないことがほとんであり、むしろ解決するどころか、体調が悪くなる一方だったので、その解決策の一つとしてブログをやってみることにした。
今でもそれは変わらない。
でもその他にも目的があった。
稼げるブログ
人のためになるブログ
いいね!をしてもらうブログ
しかし、かれこれブログを始めて2年近くなるが、結局のところ自分の思考をアウトプットすることと、少しでも人のためになるなるような記事を書きたいと思うようになってきた。
人のためとか書くと綺麗ごとにも聞こえるが、やっぱり人のためにならないことを書き続けても、結局虚しくなる自分がいることに気づいた。
突き詰めれば人のため=いいね!をしてもらいたい
ということになるかもしれないけど、
いいね!をしてもらうために周囲に迎合したり、媚びを売る文章もストレスになる。
以前はおもしろく、わかりやすい文章も心がけたが、それは他人が書いた文章のようであり、かなりのストレスになっていた。
自分の思考をアウトプットしつつも、少しでも人のためになるブログ
今の自分はそんなブログを目指しているんだと思う。
出来る限り、自分の考えを正確に把握し、自分の気持ち正直な形で文字にする。
だけど、それには人によっては不快を与える文章になる。
中には過激な文章を書いてそれをビジネスにしている人もいる。
別にそれが絶対悪とは思わない。
その人の個性だし、自分に正直に行動しているだけかもしれない。
正直に生きるということは人を傷つけ、不快にさせるということでもある。
僕は自分の心がそこまで強くないし、自分をそこまでに追い込むことはできない。
出来る限り相手に悲しい思いをさせたくない。
だから自分の正直な気持ちは知りつつも、できる限り柔らかい文章を書きたい。
自分の気持ちを率直かつ、柔らかく伝えるならきっと、詩や小説などの表現が一番いいんだと思う。
正直すぎる文章は角が立つ
かといって柔らかすぎたら真意が伝わらない
そういう意味で詩や小説はその絶妙な場所に文章を落ち着けることが出来る。
でも残念ながら僕はそういう技術は持ち合わせていない。
だからブログを書くということは常に自分の本心との距離の葛藤がある。
でも書き続けることによってある程度その距離は縮められるということが可能なはずだ。
少なくともブログを始めた当初よりは僕は自分の気持ちを正確に表現できるようになっている実感があるし、文章も自分なりのスタイルが出来つつある。
繰り返して言うが、綺麗ごとかもしれないけど、
自分の思考をアウトプットしつつも、少しでも人のためになるブログ
そんなブログを今は目指している。
ボーっと出来ない
今日も相変わらず体調がイマイチだ。
頭がボーっとして何もする気になれない。
日曜日なのでこんな時は家でのんびりしたいところだけど、今日に限って資格試験があり、今はとある大学のキャンパスにいる。
普段だったら試験時間の合間は勉強するなり、本を読むなりして時間をつぶせるけど、今日はまったく駄目だ。
かといってボーっとすることも出来ない。
ボーっとしようとしても頭の中で何か考えようとしてあまり休まらない。
だからこうしてブログを書くことによって、頭の中でぐるぐる考えていることを少しでも言語化して外に吐き出そうと試みている。
うん、こうやってとりとめのないことでも書き出してみると、中々頭がスッキリしてくる気がする。
とにかく手を動かして(キーボードを叩くことが手を動かすことなのか?)外に吐き出す、視覚化することは身体に良いみたいだ。
ボーっとすることが出来ない。
これって結構危ないことなのかなと思う。ボーっとしても何かを考えようして、自然と意識が頭の中にいってしまう。
悩み、不安など、考えざるを得ないことに脳が支配されている。
要は煩悩
心が落ち着いてない証拠だ。
自分の中で無意識に考えることによって、「物事が解決できる」、「不安が解消される」そんな風に刷り込まれている気がする。
ある本で脳は楽をするように出来ていると書いてあったのを見た記憶がある(養老孟司だったかな?)。
出来る限り自分では身体を動かすに、そして思考も煩雑なことはせずに可能な限り労力を払わないようにする。
スマートフォンはまさにその象徴だ。
指先だけで、好きなものは手に入るし、情報も検索で絞りこめば効率良く入手できる。
肉体的労力、知的労力のコストを極力抑えることが出来る。
まさに脳が求める機能そのものだ。
少し脱線したが、今の自分もそんな状態にある。
きっと心の奥底に悩み、不安があって、それを解消したい。
脳は出来る限り楽にその悩み、不安を解消しようとする。
だから頭の中だけでグルグル考えてしまう。
手足は動かなくていいし、グルグル考えれば思考は単純になる。
おなじ問題を出し、同じ答えを用意する。
その繰り返し。
グルグル考えるというのはそういうことだ。
つまり考えているようで考えてない。
思考の進歩がない。
下手の考えとはこういうことを言うんだろうな。
しかもタチが悪いのは頭の中でグルグル考えてるだけで、文字にされてないから自分が同じことをひたすら考え続けてることに自覚があまりない。
今、文字にすることによって自覚する。
「また同じこと考えてるわ」
身体を使って文字にして初めて自覚する。
頭の中でとりとめなく考えていることを文字にして、外に吐き出す。
そうすればぼーっとできるかもしれない。
とりあえずこうやって書いたことによって少しスッキリしました。
下手の考え休むに似たりというけど、むしろ毒だと思う
昨日から疲れ気味で思考がまとまっていない。
考えることが億劫になってる。
それでも何かしら考えようとしてる自分がいることに気づく。
下手の考え休むに似たり
こんな諺があるけど、僕から言わすと
下手の考え毒を飲むに似たり
と感じる。
ぐるぐるまとまらないことを考えようとしてどんどん体調が悪くなる。
思い返すと布団から抜け出せなかったときは、この負のスパイラルにはまってた。
寝ながらぐるぐる考え、ますます体調が悪くなり、布団からもっと抜け出せなくなる。
だから最近はいっそのこと考えないように努めている。
考えないように努めるといっても、何もせず考えないのは難しい。
だから身体を使って考えないようにする。
そして出来る限り身体を丁寧に使うように意識する。
身体を丁寧に使うというのは「考えながら作業しない」ことだ。
意識を身体に向け、丁寧に身体を使うと余計なことは考えないようになる。
身体は使う中で一番手っ取り早いのは運動だろう。
でももともと体調が悪い時に運動は中々酷だ。
そういう時僕は整理整頓したら、シャワー浴びたり、
珈琲をドリップしたりなど、手軽に始められそうなことをやる。
案外、そうしたことでも頭がスッキリして身体が動いてくる。
布団から中々抜け出せなくて悩んでる人は、まずは難しいことは考えずに手軽に出来ることからやってみてはどうだろうか。
本気でやるしかない
文章を書こうとすると、どうしても身構えてしまう。
上手く書こうとすると言葉が自分の気持ちから離れていく。
自分の気持ちのまま書こうとすると、支離滅裂な言葉になる。
だから言葉を知るのは大事なのかなと思う。
あるいは身体の使い方を学んで、自分の気持ちを表現することが大事だと思う。
でも一番大切なことは自分の気持ちを精一杯出そうとする姿勢なんだと思う。
それをしないかぎり何も始まらない。
偽りから始めたら偽りでしか終わらない。
本気で始めるから本気で終わることが出来る。
まずは本気で始めることからしよう。
上手くいかなくてもいいから。
カッコ悪くてもいいから。
そこから僕という人間が出来てくることを信じて。
仕事帰りの雨上がりの夕日
雨上がりの夕日は綺麗だ。
仕事が終わっていつもの道を自転車で帰る。
いつもの道だけど、今日はいつもと違った。
空気が澄んでいる。
雨で汚れを落としたのだろう。
いつもは見えない上州の山々まで見える。
秩父連山の方はまだかすんでいる。
そこでは雨が降っているのかもしれない。
それでも雲間から陽光があふれてきている。
雲は灰色から白色、赤色、紫色と交じり合っている。
木々の間を走ると、木漏れ日がある。
まるで森の中を歩いているようだ。
いつもの道、いつもなら仕事のことを考えながら自転車をこいでいるけど、今日は違う。
気持ちいつもよりゆっくりと漕ぐ。
満ち足りた時間だと思いながら、僕は家に向かっていた。